ピシュタコの墨

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「……幽煙、折り入って頼みがあるんだが」  俺がそう切り出すと、幽煙は振り向き、じっとこちらを見つめた。  蝋燭の揺れる灯りが、男の髭面をぼんやりと照らしている。その瞳は、墨と同じ色をしていた。 「またか。これがどんな代物なのか、分かった上で言っているのか?」 「承知の上だ。次の展示会には、俺の書家としての人生がかかっている。なんとしても、成功させたいんだ。恥を承知で頼む……お願いだ」  俺は深く頭を下げる。頭上で幽煙がため息を付いたのが分かった。  書家としての人生を歩みだすきっかけとなった学生時代のコンクール。なかなか納得のいく作品を仕上げられなかった俺は、藁をもつかむ思いで、既に大学を離れていた幽煙のもとを頼った。  半ば世捨て人となっていた幽煙は、憎まれ口を叩きながらも、貴重な油煙墨のひとつを俺に託してくれた。その墨は不思議と俺の不調をやわらげ、筆の走りを助けた。様々な幸運も重なり、そのコンクールで俺は最優秀賞を取ることが出来た。そして、プロとして活動するきっかけを掴んだのだ。  それからも、俺は節目となるタイミングで毎度のように幽煙の墨を頼った。ジンクスや縁起を担ぐ、というレベルの感覚ではなく、明確に幽煙の墨の力に依存していた。彼が熱っぽく語る油煙墨の由来がいわくつきであればあるほど、その墨を使って書いた作品の評価が高まるように思えた。 「……まあいい。お前には世話になっている。俺もただ眺めるために墨を集めているわけではないからな。倉庫に眠らせているだけ、というのは好かん。字は紙に書かれてこそだ。ただ、ひとつ条件がある」  そう言うと、幽煙は部屋の中央を顎で指し示した。  そこには一メートル四方の画仙紙が敷かれ、脇に筆と硯が置いてあった。 「俺の指定する文字を書いてもらう。いま、ここでな」  随分と準備が良かった。あらかじめこうなることが分かっていたような。  俺の考えていることなど、幽煙には初めからお見通しなのかもしれなかった。
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