ピシュタコの墨

　奈良にある幽煙の自宅に辿り着いた時、辺りにはまだ強い雨が降っていた。

　悪天候で新幹線が運休したこともあり、予定の時刻からは随分と遅れてしまっている。町から外れた竹林の中にある幽煙宅の周辺には街灯もなく、日が暮れてしまえば自分の足元すら見えないほどに暗かった。

　左手に携えた懐中電灯の僅かな明かりを頼りに、俺はこの辺鄙な場所まで歩いてきた。とどめなく降る大粒の長雨が、LEDライトの放つ光を反射して輝いている。鬱蒼と茂る竹林を背景に佇む幽煙宅は、闇に塗れた濡羽色に見えた。

　水滴が傘を打つ雨音を煩わしく思いながら、濡れた玄関の引き戸を叩く。

「幽煙、俺だ。松下だ。約束の物を見に来た」

　雨音にかき消されないよう、大きめに声を張った。しかし返答はない。
　作業に没頭しているのだろうか。しかし、今は六月だ。幽煙が作業部屋にこもるような時期でもない。部屋の灯りがついていないところをみると、とっくに待ちくたびれて眠ってしまったとも考えられた。

　しかし、俺にはもう彼の目覚めを待っているほどの余裕がない。

　拳を軽く握り、戸を何度も強く叩きながら幽煙の名を叫ぶ。
　このまま反応が無いなら、いっそ無理やりにでも押し入ってやろうか。
　思い切って引き戸に手をかけた、その時だった。

「……随分とやかましい」

　扉の向こうから男の声が聞こえた。幽煙の声だ。

「なんだ、起きていたのか。ならさっさと開けてくれ。ひどい雨なんだ」

「不躾な奴だな。少し待て」

　そう言うと幽煙は戸の向こうでごそごそと動き始めた。布ずれの音が聴こえる。すぐそこで服を着ているようだった。思えば学生時代からこいつには、夏になると半裸で眠る癖があった。パンツ一丁の姿で出迎えを受けたのは、一度や二度の話ではない。しっかり服を着て来客を出迎えるようになったのだと考えれば、成長したと喜べなくもないが。

「はやくしろよ」

「せっつくな。手元が暗くてシャツのボタンがうまくかけられんのだ」

　しばらく待つと、がらりと音を立てて引き戸が開いた。
　懐中電灯で照らした先には、見慣れた髭面の男がいた。

「そう焦るな。例の墨に、足が生えて逃げ出すということはない」

　そう言って幽煙はにやりと頬を歪めた。
　固形墨の蒐集家で、自身も油煙墨職人。
　書家である俺、松下瑞雲の友人である呂色堂 幽煙(ろしきどう　ゆうえん)は、相変わらずの憎たらしさで旧友の来訪を待っていた。