ピシュタコの墨

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 幽煙の本名は宗田祐樹といい、俺と同じ大学の国文学科書道コースに通う同級生だった。  だった、と表現したのは、ヤツが在学中に突然『呂色堂 幽煙』を名乗り出し、学校を中退して、この奈良で墨づくりの修行を始めてしまったからだ。  奇行の目立つ変わり者ではあったが、俺はこの友人を昔から何かと重宝していた。不愛想で人嫌い、自分の興味のないことには無反応無関心を決め込む厄介な男ではあったが、墨に関わることとなれば、彼以上に頼りになる存在はいなかった。 「暗いな。電灯は付けないのか?」 「この雨でさっきから停電している。仕方なかろう。蝋燭ならここにあるが」  ぼう、と灯った爪先ほどの火を頼りに、俺は幽煙の背中について歩いた。  古びた民家を改築した幽煙宅は、彼の生活拠点でありながら工房も兼ねている。だが、現在は何の作業も行われていないはずだった。  幽煙が手作業で行っている油煙墨の製造には、(にかわ)という粗製のゼラチン質を用いる。獣の皮や魚類の骨を石灰水に浸し、煮て、濃縮した後に冷やし固めたものだ。煤と膠、そして様々な香料を練り合わせることで固形墨は作られている。  気温が高くて湿気の多い夏場はどうしてもこの膠が腐りやすかった。気候が墨づくりには適さず、それ故に、幽煙がこの工房で作業をするのは、十月中旬から四月下旬の寒期だけと決まっている。   「……で、例の墨は?」 「倉庫だ。この停電では、どうせ茶の一つも碌に用意できん。手短に案内する」  そう言って幽煙は、懐から古めかしい金属製の鍵を取り出した。  来客に茶を用意しよう、という発想がこいつにあったということだけでも驚きである。歳月とは人を成長させるのだなと、俺は一人感心した。  廊下の先に、南京錠で封が施された木製の扉があった。    不器用にガチャガチャと鍵を鳴らして錠を外しにかかる幽煙を待っている間、俺は部屋の中に漂うかぐわしい香りに気を取られていた。  白檀、龍脳、梅花、麝香。  動物由来で独特の臭いがある膠の臭い消しと香り付けに用いられる、天然の香料だ。 「開いたぞ。こっちだ」  幽煙が手招いた。  扉の先に足を踏み入れると、そこにはどことなく厳かな雰囲気が漂っていた。  天井に届くほど巨大な棚に敷き詰められた、ありとあらゆる種類の固形墨。この倉庫には、幽煙手製の油煙墨だけでなく、彼が世界中からかき集めた珍しい蒐集品も収められていた。  これらが全て何の変哲もない普通の墨であったなら、俺がこうしてわざわざ東京から足を運ぶことも無かった。呂色堂 幽煙。墨にかける執念だけは狂気的と言える男である。市場にけして出回ることのない「ヤバい」代物が相手でも、彼は平気で手を伸ばした。  その連絡をもらったのは、つい昨日の夜の事だった。
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