ピシュタコの墨

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『ようやくアレを手に入れた、一度こちらに見に来い』  幽煙は不愛想で変わり者の男だったが、手に入れたお気に入りの品だけは誰かに見せびらかしたい、という人並みの欲求を抱いていた。旧友であり書家の端くれでもある俺は、丁度いい自慢相手だったのだろう。  墨を前にした時の熱っぽい幽煙の語り口はだいぶ鬱陶しくもあったが、それ相応に大きなメリットもあった。俺は彼のどんな長話も邪険に扱わず、黙って耳を傾けた。  彼が取り扱う墨は、確かに一級品ばかりだった。  此度の代物は、その最たる逸品だと聞いている。   「見せてやる。……これが、『ピシュタコの墨』だ」  そう言って幽煙は、手元の蝋燭の灯りを一つの木箱に近づけた。俺も持っていた懐中電灯の光をそちらに向ける。箱は随分と薄汚れていた。経年劣化によるものと思われたが、それ以外にも表面に和紙が貼られていた形跡がある。固く糊付けされていたものを無理やり剥がしたようで、ところどころに紙の繊維が残っていた。 「……古いことは確かだな。本物だという証拠は?」 「無い。しいて言うならば、この呂色堂 幽煙の目利きこそが証左と言える」 「おい、ふざけるなよ」 「文句の前に箱を開けてみろ。特別に触ってもいい。お前ならこの価値が分かるはずだ」  幽煙に促され、俺はそっと木箱の蓋を開けた。  瞬間、強い芳香が匂い立った。ひどく濃い。南国の花に似た、むせかえるほど甘い匂い。思わず顔をしかめた俺は、次の瞬間に目を見張った。    ピシュタコの墨。  闇よりも深い黒。まるでその場から全ての物質が消え失せたような虚ろ。どこまでも続く果てのない黒が、直方体の形を取って、古びた木箱の中に鎮座していた。 「これは……」  俺は生唾を飲み、手を伸ばす。  光を反射することのない深い黒は、空間の狭間にふとできた「穴」のようにも見える。視覚だけでは奥行きの距離がいまいち掴めなかった。表面に触れようとして差し出した指は、何かに吸い込まれていくようだ。  しかし、物体である以上それは確実に存在する。ソロソロと進んだ人差し指は、やがてその漆黒にひたりと触れた。冷たい。そしておそろしく滑らかだ。銘のない油煙墨は、かつてSF映画のワンシーンで見たモノリスに似ていた。  親指、次いで中指も添えて、その固形墨を持ち上げてみる。想像以上に重い。驚かされたのは、その質感だった。硬すぎず、そして柔らかすぎもしない。皮膚に吸い付くような絶妙な触り心地は、思わず頬ずりしてみたくなるほどに蠱惑的だった。 「良い手触りだろう。おそらく女だな」  ぼそり、と幽煙が呟いた。  瞬間、言いようのない悪寒が背筋に走る。  怖気づき、墨を木箱に戻した俺の様子を見て、幽煙はせせら笑った。 「なんだ、忘れていたのか? ちゃんと伝えていたはずだぞ」  幽煙の腕が伸び、ピシュタコの墨を手に取った。目の高さまでそれを持ち上げ、うっとりと見つめる。 「こいつの材料には”人間”が使われている、と」  雷の落ちる音が聴こえた。同時にどこかでポタリと液体が滴った。  横殴りに壁を叩く雨音が一層に強くなった気がした。
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