ピシュタコの墨

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 固形墨の「黒さ」を決定づけるのは炭素末、つまり煤である。不純物の燃焼により発生する粒子の大きさが、墨のにじみと色味を左右する。松の木を燃やして取る煤を使った松煙墨に比べ、胡麻油などを燃やして煤を取った油煙墨は、圧倒的に不純物が少なかった。より黒く発色したのだ。  室町時代に製法が普及して以来、それまでこの国で主に作られていた松煙墨に変わり、この油煙墨が主流となった。 「ピシュタコとは、南アメリカのアンデス地方に伝わる神話上の悪霊のことだ。アンデスの先住民たちは、過剰な体脂肪と肉欲を、健康や美しさの象徴として重んじていた。現代の日本人とは真逆な価値観だな。民間伝承によれば、悪霊ピシュタコは先住民たちを殺害、虐待して、身体から脂肪を吸引したと伝えられている」    幻とされる油煙墨を眺めながら、幽煙はやたらとよく喋った。  珍品の由縁を話したがるのはいつものことだが、今日はどこか語り口が異なっているように思える。 「アステカ帝国を征服したスペイン人の慣習を知っているか? 彼らは治療の為、死体から取った脂肪を自らの傷口に塗っていた。人の脂肪を資源として活用したわけだな。また、金属製の銃や大砲には錆を防ぐために油を塗ることがあるんだが、彼らは殺した先住民の死体を鍋で煮沸して、防錆用の脂肪をも現地で生産していた。先住民からすれば、まさに侵略者こそが悪霊の類に見えただろう」  「ピシュタコの墨」を持ったまま、幽煙は自身の作業場に向けて歩き出した。  その背中を追いつつ、俺は彼の話に耳を傾ける。豪雨に伴う停電は相変わらず続いており、手元の灯りだけでは部屋の全てを見通すことはできなかった。 「この油煙墨には銘が彫られていない。外箱にも記載は無かった。誰が、いつ、どこでこれを作ったのか。それらの情報は一切残されていない。だが、どうやって作ったかだけは示されている。ピシュタコ、という名が冠されているのは、そうと分かる相手にだけ製法を知らせようとしているからだ。いわば、符丁だな。人の脂肪を燃やして煤を取り、人皮から抽出した膠を混ぜ込んだ、人体由来の油煙墨。端的に言えば、こいつは間違いなく“呪物”の類だよ」  ぞくり、と身体が震えた。  恐れかもしれない。しかし、それ以上に抑えきれない衝動があった。  この墨があれば。そう思わずにいられなかった。
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