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「せめて停電が復旧した後にしないか? この暗さじゃ手元も見えない」
「いつ直るともしれんものを待てるか。蝋燭ならまだある。これで我慢しろ」
そう言って幽煙は画仙紙と俺の周りを囲むように円の形で蝋燭を立て、灯りを点けた。
俺の持ってきた懐中電灯は、いつの間にか電池が切れてしまっていた。頼りになるのはこの小さな炎たちだけだ。揺れる蝋燭の炎に囲まれ、怪しげな儀式のような様相になってしまったことに苦笑しつつ、俺は「ピシュタコの墨」を手に取った。
水の入った硯もまた、幽煙の用意した特別製だった。
持ち上げた油煙墨は、触れた指の腹にぴたりと吸い付く。それを水に浸して硯の表面を磨ってみると、小気味よく擦れる感覚に加えて、得も言われぬ芳香が立ち昇った。
先ほど幽煙が言い放った「おそらく女だな」という言葉が、何故か紛れもない真実であるように思えてきた。この甘やいだ香りは、香料で染みつかせた匂いとは明らかに何かが異なっている。
そう、まさに発情期の生物が発するフェロモンのような。
「……いい香りだ」
俺がそう呟くと、幽煙はフンと鼻で笑った。
「みんなそう言うよ」
みんな、という言葉に引っかかる。
まさか、他の誰かにこの墨を使わせたのか?
言いようのない憤りが込み上げてくる。
書くのは俺だ。この墨は俺だけのものなのだ。
柔らかな身体に指を這わすよう、細心の注意を払って墨を磨っていく。徐々に水に溶け出していく黒色は、果てしなく深い。墨を前後させるたびに、あの匂いが香り立つ。ああ、なんて甘くかぐわしい。
俺は半ば酩酊したような感覚のまま腕を前後させ続け、十数分後にようやく墨を磨り終えた。辺りにはもう、むせかえるほどの甘い匂いが充満していた。
「……そうだ。俺は、なんと書けばいいんだったか?」
「ああ、悪い。まだ伝えていなかったな。漢字一文字でいいんだ。簡単な字だよ」
後ろに立つ幽煙の声が、どこか笑っているように聞こえる。
こんな風に笑う男だったろうか。まぁどうでもいいことだ。
「……門。門と一文字、書いてくれ。もんがまえの門だ」
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