ピシュタコの墨

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 部屋中に眩い閃光が走った。  続いて地を唸らせる轟音が響く。  落雷だ。近くに落ちたらしい。  俺は衝撃に驚き、書きかけの筆を床に落としていた。  転がる筆の先を目で追いかける。  稲光が何度も続き、部屋中を白く瞬かせていた。  板張りの床に横たわっていた何かにぶつかり、筆は動きを止める。  俺はその”何か”を凝視した。  人の身体だった。  男だ。衣服を身に着けておらず、仰向けでカッと目を見開いている。手には、ぼろぼろの紙切れが握られていた。何かしらの文字が記されたその紙切れは、古い御札のように見えた。  異常な様相だ。だが、それ以上におかしい部分がある。  俺は眼を見張る。  無い。色が無いのだ。  瞳も、髪も、見慣れた無精髭も、半ば透過した白色に変化している。  そこに倒れていた俺の友人、呂色堂 幽煙の身体からは、不自然に色が抜け落ちていた。 「どうした、あと一画だぞ」  後ろから声がする。幽煙の声だ。  ここを訪れてからずっと一緒だったはずの。   「はやく繋いでくれよ、向こう側に」  稲光が走った。  瞬間に俺は振り向き、そして悲鳴を上げた。    そこに居たのは、”黒”だった。  幽煙の服を身に纏い、幽煙と同じ輪郭を持った、濃淡のある”黒”。  俺は腰を抜かし、板張りの床を這いずるように後ずさった。  幽煙の形をした”黒”は真っ黒な腕を伸ばして、床に転がった筆を拾い上げようとした。 「続き、書いてくれよ。ほら、俺の指はこんなだから、筆がうまく持てないんだよ」  ポタリ、と水滴が落ち、床に黒い染みをつくる。  それは”黒”の指先から滴り落ちていた。  墨だ。こいつは墨なのだ。  俺は声にならない叫びをあげ、玄関に向かって駆けだしていた。 「おい、待てよ」  黒色の腕が伸びる。  俺はそれを力いっぱいに振り払う。だが手ごたえはなかった。  代わりに、黒い液体がそこら中に飛び散った。  雷鳴と豪雨が続いている。  稲光に照らされた幽煙の部屋の中は、至る所に黒い染みがついていた。  あいつが歩いた足跡だ。  きっと初めから、そうだったのだ。  十年来の友人が入れ替わっていたことに、俺は全く気が付かなかった。
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