5.黒は

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5.黒は

「頼まれたらさ、なんでもやるのが友だちなのかな」  百合がそう言ったとき、守親はいつも通りキャンバスの前で絵筆の先を青く染めて手を動かしていた。紡ぎ出す青に瞳を浸しながら、なんでもって? と守親が問い返してくる。 「頼まれたの。佳奈美を明日から無視するようにって。エリカに」 「理由は?」 「生意気だから? 佳奈美、また成績トップだったし、太田くんと付き合い始めたって話もあるし」 「太田くん?」 「いわゆる一軍のトップ男子だよ」  一軍……と呟いたきり、守親は黙る。まあ、絵を描いているときの彼なんてこっちの世界にはいないも同然だ。壁打ちみたいなものだ、と百合が諦めの息を吐くのと彼が絵筆を置いたのは同時だった。 「百合はその佳奈美さんのこと、どう思ってるの?」 「どう……いい子だとは思うよ。分け隔てしないし。ただ、まあエリカの気持ちもわかるんだよね。できすぎる子って見てるとこっちの劣等感刺激されて痛くなるもん。正直、私もときどき佳奈美見てるのしんどくなる」  悪口なんて言いたくはない。でも佳奈美を落とすエリカたちの声に納得してしまって一緒になって笑ってしまう自分だって確かにいる。  うんざりしつつため息をついた百合は、そこで目を見張った。  守親がパレットの上にひねり出した真っ赤な色にぎょっとしたからだ。 「好きではあるんだね、その佳奈美さんのこと」  言いつつ、彼はその赤を躊躇なく青いキャンバスへと載せた。続いてパレットに咲いたのは黄色。 「でも、嫌いも確かにある。さらに言うなら……ふたりのうちどっちにもつきたくないって気持ちもある」  赤に黄色をさらに混ぜ、いつも守親がよく使う青、ウルトラマリンをとどめのようにキャンバスへ置く。  ねっとりとした黒が一面の青の中に毒々しく屹立していた。 「黒……」 「黒ってさ、まあ、単体で使うこともあるけど、使い方がちょっと難しい色だから、黒で描きたいときはほかの色を混ぜて作ること多いんだよ」  さらさらっと説明しつつ、彼はキャンバスに落ちた黒い炎を目でなぞる。 「ただ、こうして黒を作るとき、黒って人間っぽいよなあ、といつも思う」 「人間、っぽい?」  人間なんて真っ黒で救いがないものとでも言うつもりなのだろうか。そもそも……守親は百合に呆れたのだろうか。友だちの悪口を吐き散らすような汚いやつと思われてしまったのか。  目頭が勝手に熱くなる。唇を引き結んでいる百合の傍らで守親が小さく息を吐いた。 「人間はさ……見えないだろ。相手の心も。下手すると自分の心だって見えないときがある」  低い声に引かれて顔を上げる。守親の目はキャンバスの黒をまっすぐに見据えていた。 「それっていろんな感情を持っていて、それが複雑に交じり合っているからなんじゃないかって気がするんだ。でも……もとはひとつずつ別の色なんだよね。この黒もアリザリンクリムソンだったり、イエローオーカーだったりする」  そう言って、彼はふっとキャンバスから百合の顔へ視線を移した。 「きっと黒の向こうにはいろんな色がある。だからもう一回よく見てみたら? 黒の中に溶けている色でなにが一番強いか」  抽象画みたいに曖昧でわかりにくい表現だ。  そう思ったけれど、納得もしていた。  結局、百合はエリカの言いつけを拒み、佳奈美を無視することはしなかった。おかげでエリカとその取り巻きには佳奈美ともどもいない者のように扱われたけれど、エリカたちと共に無視に加わっているほうがはるかに後味が悪かったはずだ、と百合は感じてもいた。  ただ、守親に対しては申し訳なさがあった。  百合の悩みをキャンバス上で説明しようとしたために、守親の美しい絵を黒で穢してしまったからだ。  だが、数日後、守親が描く絵を見て百合は驚いた。  あの日、守親が描いていた絵が見事に修復されていたからだ。キャンバスの真ん中に黒雲のように蹲っていた闇が綺麗に取り去られ、真っ青な世界へと戻っている。 「まあ、油絵はリセットがしやすいものではあるから」 と、こともなげに言う守親の横で彼の描く青い世界を見つめながら百合は思っていた。  この人の心は……きっとこういう色なのだろう、と。  普段はなにを考えているかわからない人ではある。それこそ黒い膜に覆われているかのように、感情を窺わせない。けれど……多分、この人の黒にはこの青がたくさん溶けている。 「この絵……好き」  ぽつりと言うと、守親がうっすらと笑う。  ありがとう、と囁くその声が青い画面に溶けた。  あれから随分経つけれど、やはりこの絵が百合は好きだ。
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