8.lily

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8.lily

 長辺は50cm、短辺は40cmほどといったところか。  包みを開いて息を呑んだ。  眼前に広がるのは……黒。  塗りつぶされたキャンバスが、百合に向かって夜色の口腔を開けていた。  送り主は上村省吾。聞き覚えのない名前だったが、守親が大学時代、時折参加していた美術サークルのメンバーらしいことが、同封された手紙によってわかった。  真っ黒なキャンバスの意味がわからないままに、百合はかぶりつくように手紙の文字を目で追う。 ──突然、このような形でご連絡差し上げ申し訳ありません。実は先日、僕たちの母校から、こちらの絵が部室に残ったままになっていると連絡がありました。 遠山くんの連絡先が不明だったそうで僕が代理で受け取ることになった次第です。本人に確認したところ、この絵はあなたにお送りするようにと彼から伝言を預かり、今回送らせていただきました。  入力されたものではない読みやすく丁寧な手書き文字から、人の好さが伝わる手紙だ。だが、その彼のインクの黒よりも、届いた絵の黒が気にかかって仕方なかった。  この絵はなにを意味するのか。  油絵らしく、ごてごてと塗り重ねられた表面を指先でなぞる。けれどすっかり乾いたそこから得られる情報なんてなにもない。苛立ちながらキャンバスを引っ繰り返した百合はそこで息を止めた。 ──遠山 守親  流れるような筆跡で残された彼の名前。  その名前の下に小さく、文字が見えた。 ──lily 「なんで……」  本人に問いただしたかった。どういう意味でこう記したのか。けれどメッセージを送ろうとする指が躊躇ってどうにもならない。  だって、この絵は黒く塗りつぶされている。それは……彼からの拒絶以外のなにものでもないのではないのか?  震えながら、それでも確かめずにいられなかった。百合は絵を包んでいた包み紙を必死に引っ繰り返す。幸いそこに貼られた伝票には電話番号が記載されていた。  祈るように呼び出し音を数えたとき、かちゃり、と回線が繋がった。 「あの、私、初美と言います。初美百合です。遠山守親の従妹であの……」 『ああ、絵、届きましたか』  上村は百合とは対照的にゆったりと言う。だがその穏やかさがじれったかった。 「あの! なんでこの絵、送ってきたんですか。そもそもこの絵、こんな真っ黒で……あの」 『なんでかは……ただ、黒く塗った理由は聞いています』 「なんで」  咳き込むように問うと、上村は言葉を切った。 『これ以上想うわけにはいかないから、と』 「え……」 『このまま想っていたら、きっと苦しめてしまうから、と。そう言って色を重ねていました』  苦しめてしまう。  それは。  ねえたん、と言って笑った真の顔が瞼の裏に浮かんだ。 「あの……上村さんは……見た、んですか。黒く塗る前の絵。なにが描いてあったか……覚えていますか」  lily  祈るように彼の文字を指でなぞる百合の耳に上村の声が落ちる。 『百合の絵でしたよ。白い百合が海の中で揺らめいている、とても美しい絵だった』  lily……百合。 ──きっと黒の向こうにはいろんな色がある。  そこに確かにあったはずの色に彼は蓋をした。見えないように、見せないように。それを今、ここに送ってきた理由は……。 「もう忘れてってことなの?」  きっとそうだ。彼にとって百合と繋がり続けることは辛すぎることのはずだから。離れてあげることが彼にとっての幸せなのだ。絶対に、そうだ。  けれど。  黒の向こうにある彼の、心。  そこにあるのは本当にもう、痛みだけなのか?  百合が離れたらそれで彼はあの青に戻れるのか?  通話を終えた百合は、拳でぐいぐいと目を擦り、クローゼットへ向かう。乱暴に旅行鞄を引っ張り出し、手当たり次第に服を詰める。  そうして片手に旅行鞄を片手に真っ黒なキャンバスを抱え、家を飛び出した。  走る百合の胸を、彼そのもののような青色がじりじりと闇色へと溶けていく幻影が、繰り返し刺した。  だから、走った。  黒い膜の向こうにいる彼の心を捕まえるために、ヒールのかかとを鳴らして走った。
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