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「こんなとこまで来て、ついてない……」
突然の雷雨。ド田舎のバス停は、雨風を凌げるふうの腐りかけた屋根があるのだが、足元は吹きっ晒しと変わらずでびしょびしょだった。
「どっこいしょ」
黒ずんだプラスティックのベンチは、脚が折れないことを祈るばかりだ。空欄だらけの時刻表は、滲む印字が待ち時間を侘しく物語っている。
「生きるの、怠い」
最近の口癖だった。年を取れば取るほど、世相にも興味を失っている。獲った仕事も時代の波に飲まれていた。何をやっても上手くいかない。俺のやり方が通用しない。なにがコンプライアンスだ。無能な新入社員は、権利ばかりを主張して基本給の高さに泡吹くわ。もう言葉の通じる別の国としか思えない。
「早く、定年こねーかな」
「老後は、どうするんだ?」
「悠々自適にって、そんな年金あるわけないし、どうすっかなあ……あ?」
ふと、横を見ると、背中の丸まった爺さんが座っていた。
「なにをするんだ?」
爺さんの顔が、ぼやけて見える。くそ、コンタクト落としたか。泥水浸ったのなんて使う気にならん。早々に諦めるしかないぞ、クソが。
「なにをするもなにも、足りない分はテキトーに働くしかないでしょ」
「そして、また悪態を吐く日々か?」
「それは……」
「不満だらけで、死んでいくのか?」
爺さんの言葉は、鋭利な刃物のようだった。問い掛けというよりは、叱責に近い。
「だからといって、どうしようもないでしょ。急に人生が明るくなるようなことなんてある訳ないし」
「どうにかしようとは、しているのか?」
「仕事が忙しくてね。それどころじゃないんですよ」
「毎日を無駄にしているということだな」
「爺さんねえ……」
「気にするな。どうせ人間は死ぬ」
吐き捨てるような言葉だった。若かったら、殴りかかってくるほどの語気の強さも含んでいる。まるで、爺さん自身が限界まで不満を募らせているような感じがした。ある意味、そんな顔を見なくて済んでよかったのかもしれんな……いや、本当に殴り掛かられたらどうする? いくら年寄りとはいえ、これだけボヤけてたら太刀打ち出来んぞ。
「これから、考えます」
「そうしろ。で、どう生きたい?」
山向こうからの潮風も鬱陶しい。いま直ぐ考えろってか。
俺にとっては、難問なんだよ。
「何もないなら、具体的なことから考えようとするな」
「というと?」
「己の表情だ」
「表情?」
「そうだ。お前は今どんな表情をしていると思う? 穏やかな表情か? あるいは、やる気に満ちているふうか? はたまた、楽しくて仕方がないといった様子か?」
「……」
「返答がないということは、すべて逆であるということだな。であれば、まず、その表情をどうしたいかを考えろ」
そうだな。鏡の前の疲れ切った仏頂面も、とうに見飽きていたところだ。この際だから、違う自分の表情を考えてみるか。
「鏡で見たくなるような表情……ですかね」
「ほお、虚を突くような答えで面白い。で、それはどんな心情といえる?」
「どこか知らない土地へ向かう前の晩とか。子供の頃なら、遠足や修学旅行とかかな」
「なるほど。家で惰眠を貪り不満を募らせるよりは健康的だな。で、行けるとしたら、どこへ行きたい?」
「そうだな、城が好きだから、各地の城巡りとかいいかもな」
「それなら、計画立てれば難しい話じゃないだろ?」
「ん? そ、そうですね……」
おかしいぞ。いま、俺は爺さんと話していたはずでは? 声に張りがあるし背中の丸みも減っていて座高も高くなっていないか? 語気だって、間違いなく和らいでいるだろ。
「仕事ついでに、少しだけ時間を費やしてもよかったんじゃないか?」
「たしかに……」
直帰だから、多少の寄り道はなんの問題もなかった。どうして、気が付かなかったんだろう。
「仕事というより、人生に背を向けてしまえば、思い付くはずのことも思い付かなくなるもんだろ」
根こそぎ汲み取ったような言葉。努力の方向性を後悔しているような悲哀の響き。俺の心に深く色を落とす。
「帰る方向と逆ですけど、たしか、海城があったと思いますよ」
「ん!? そ、そうですか……」
きっと青年だ。道に浮かぶ靄に視線を移すたびに誰かと入れ替わっているのか? 覇気のある物言いと線の違いに事態を把握しきれない。
「とにかく行ってみる。やってみる。答えは、それからでいいんじゃないですか?」
「そうかもしれないですね……」
見透かされた、若者に。そう、俺は動揺しながらも、頭の真ん中に湧いてきた城巡りに飽きたら、いつもの表情に戻ってしまうんじゃないかという考えに気持ちが向いていたのだ。そして、結果が同じならば、無駄な時間でしかないという結論に達してしまおうとしていたのだ。
「きっと、同じではないはずですよ」
「そうかな?」
「そうですよ。前向きな経験は、景色を変えてくれます。見えるものを豊富にしてくれます。そして、澱みのない選択肢を提示してくれます。万が一、同じであったとしたならば、また探せばいいじゃないですか。楽しむことだってエネルギーが要ることだと思います。意外と辛いことも隠れてたりするかもしれませんしね。だから、スパンを長く虎視眈々とでいいんじゃないですか?」
「なるほど。そんな感じで仕事も上手くいって欲しいね」
「見え方が変われば、変わると思いますよ」
「そんなもんかな?」
「そんなもんですよ。失敗だって、見え方が変われば、次の成功でしょ?」
たしかに、上手くいっていた頃は、派手な失敗すら次の成功の鍵だった。ところが、年を取るにつれて責任の重さから小さな失敗すら極端に恐れて成果も出せなくなっていた。そうして、気が付けば人の成功を妬むだけの人間になっていた。
これでいいのか? 打破するべきじゃないのか?
それなりの経験は積んでいる。不要なリスクぐらいは、判断が付くだろう。それに今の時代に合わせられないのなら、まずは折り合いの付け方から身に付けたらどうだ? 必ず時代は変わる。もっと難しい時代になるかもしれないが、逆もまた然りだろう。だったら、それすら楽しむ心算で構えていればいいじゃないか。しんどいなら、心の籠城戦だ。そうして、牙を研いで時機を伺え。耄碌を決め込むには、早すぎる。さっきの爺さんみたいには、なりたくない。
「はんたいの時刻表は、もうみた?」
「いや、まだだよ」
見上げる少年に不思議と驚くことはなかった。そうだったな。俺って、こんな表情だったよな。
「先にいくね!」
「気を付けるんだぞ!」
踵から、勢いよく泥が跳ね上がる。気が付けば、雨は上がっていた。そうして、うっすらと空には、虹が掛かっていた。
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