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「それならばどうしようもない」
「えっ」
思わず声を上げたのはジンだった。シュテフィはジンの方を見もせず、淡々と言葉を続ける。
「その顔を見るに、最初から私の答えは分かっていたね。君がなぜ私に期待しているのか分からないが、私だけ例外ということはないよ。他の医者も全員そう言っていたはずだ」
「……さっきはみてくれるっていったわ」
「診てみなければ分からない、とは言った。でもクノッヘンなら話は別だ。診なくて分かる。助からない」
「いや。だめ、ちりょうして」
「できない」
「だれもみてくれないの!」
「それは、診たところで助からないからだ。それどころか訪れるのにも危険を伴う。……君も本当はとっくに分かっているんだろう。苦痛を取り除く薬なら処方してあげられる」
ダン! と床を叩きつける音がした。アンネが怪我している方の足で思い切り床を蹴り立ち上がった音だった。シュテフィの表情が俄かに険しくなる。痛みなど感じていないかのように、少女は仁王立ちでシュテフィの前に立ちはだかる
「ウソつき。やっぱりあんたなんかヤブ医者よ」
「かまわないよ。そもそも医者じゃない」
「あんたなんかだいっきらい」
「私も自分で自分を傷つける奴は嫌いだ」
あっと思ったときにはもう少女の琥珀色の両眼が濡れ、大粒の涙がぼたぼたと木の床に滴り落ちた。頬を伝うそれを拭いもせずアンネは真っ向からシュテフィを睨みつけた。
「一つだけ助言できるとしたら一刻も早くクノッヘンを離れることだ」
「できたらしたわ! あのときも! 今も!」
「それは…………悪かった。無粋だったね」
ジンがおろおろと戸惑っているうちに、悲鳴のような声で怒鳴りつけた少女は扉の前に立った。取っ手に手をかけ、思い出したようにシュテフィを振り返る。
「……ひとつだけおしえて。死神の母のいばしょ。あんたはしってる?」
「それを知ってどうする」
「きまってるじゃない。かみついてやる。それからげどくざいを作ってもらうの」
シュテフィは何も答えなかった。ぎゅっと拳を握り締め、アンネは家の外に出ていった。
家の中にはジンとシュテフィの二人だけが残された。
重い沈黙が室内を満たしていた。窓の外では小鳥がさえずる、うららかな春の午後だというのに。意を決してジンが口を開きかけたとき、独り言のように彼女が呟いた。
「嘘つき、か。そうかもね」
「シュテフィ」
言葉は自嘲気味な響きを伴っていた。シュテフィは椅子を立ち上がり窓辺に立った。差し込む春の陽光が彼女の立つ場所から少し外れた床を照らし出している。開け放たれている窓から吹き込んだ風がレースのカーテンを膨らませ、彼女の横顔を隠した。
どう声をかけるべきなのか分からずジンはその場に立ち尽くしていた。
何もかも分からないことだらけだった。アンネの不可解な怪我、不治の病、その名を聞いただけでシュテフィが諦めろという地名。あどけない少女に似つかわしくない物騒な言葉。時折シュテフィとの会話の端々に滲む戦争の影。〝死神の母〟────
一つ一つの意味は分からなくともジンに理解できたのは、たった今ここで交わされた話題はこの世界にやってきて十日やそこらの自分が軽々しく踏み込んではいい領域ではないということだった。彼女たちの口調にはそれほどの重みがあった。
脈絡なく思考が絡み合う。ひょっとするとそれはシュテフィがここで調合師をしていることとも関係があるのだろうか。
「すまない。気を遣わせてしまっているね」
はっと気がつくとシュテフィがこちらを振り向いていた。存外明るい声に少しほっとする。
「いや、俺は別に。……大丈夫か?」
「うん。すまないついでに、少しの間一人にしてもらえるだろうか。頭を冷やしたい」
「そうか。俺はあの子の様子を見てくるよ」
「頼む。ありがとう」
シュテフィは微笑んだ。
家の外に出たとき、ジンはどっと肩の荷が下りるのを感じた。
物理的に離れて内心ほっとしている自分がいた。
決して関わりたくないわけではない。むしろ逆だといえる。しかし、その思い以上にどうしたらいいのか分からなかった。結局それすら見抜かれていたわけだが。
なぜだかシュテフィが泣くんじゃないかと思った。
もし目の前で泣かれたとしたらそれこそフリーズしてしまう自信がある。なんとも情けない話だが。
泣いたのは少女の方で、どちらかといえばシュテフィは泣かせた側だ。それなのになぜそんなことを思ったのか謎だった。
アンネの居場所はすぐに分かった。
ジンが来てからというもの少しずつ草刈りを進めているとはいえ、家の周囲はまだまだ背の高い草が生い茂っている。
大人でも大変だというのに子供の身長では草むらに分け入るのは不可能に等しい。馬車の道筋以外では、唯一ジンが周辺を探索したときに切り開いた獣道のような一筋が草の中に伸びていた。
この条件下で怪我をした子供の足ではそう遠くまでいけないはずだ。
その道をたどると、ほどなくして河川敷のような傾斜のついた草原に出た。地形が逆三角形になっていて底面にちょろちょろとした流れの小川が流れている。案の定その斜面に小さな背中があった。
「無茶するな。傷口が開くぞ」
ジンが声をかけると、膝を抱えて座っていたアンネが勢いよく振り向いた。やはり足首の包帯が痛々しく染まっていたが、睨み返す元気はあるようだ。泣き腫らした琥珀色の瞳は怒りに燃えていた。彼女は再び背けて正面を向いた。
「こんなのいたくないわ。アルドスにくらべたら」
「アルドス?」
聞きなれない名前のようなものにジンが聞き返すとアンネは頷いた。
「アルドスはね、すごくりっぱなひとなの。森でいちばんかしこくてものしりで、だれよりつよくてやさしいの。ぜったいに、こんなことで、死んでいいひとじゃ、ないの」
一言一句噛み締めるように彼女は告げた。まるでそうすることで望みが現実になるとでもいうかのように。
文脈から察するに、そのアルドスという人物がアンネのおじいさんであり件の病人のようだ。ジンは人々に慕われていて博識で温厚な性格の長老のような人物を想像した。森で一番、ということはシュテフィのように森の中に住んでいるのだろうか。まだ分からないことが多すぎる。
ジンはそっと心中で覚悟を決めた。シュテフィに尋ねるよりも、むしろ出会ったばかりで関係性の浅い少女に尋ねる方が幾分気楽だ。
「そのことなんだが。俺、実はこの国に来たばかりでさ。だからさっきお前らが言い争ってた理由がさっぱり分からないんだが……その殲滅戦、とかクノッヘン? について教えてくれないか」
アンネの顔を見てジンはしまったと思った。彼女が信じられないようなものを見る目でこちらを見ていた。
「わかんないって……まさか二年まえのたいせんをしらないわけないわよね? 世界きぼのせんそうだったでしょ? おとななのに?」
「あー。ざっくりは知ってるんだが、詳しいことまでは知らないんだ。ほら、極東の島国からの移民でさ」
「そんなしまあったかしら」
「知らないのも無理はない。地図にも載ってない島なんだ」
「ふうん。よくわかんないけど、それでそんな変わったことばづかいなのね」
と、アンネは子供らしからぬ咳払いを一つすると、とにかくと言った。
「しかたないからあたしがおしえてあげるわ。いちどしかせつめいしないからよくきいてるのよ」
「ああ。助かるよ」
アンネは得意気に少し頬を紅潮させた。だんだんとこの少女の扱い方が分かってきた。
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