第二章 少女と罪

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 シュテフィによると、森を南へ抜けて草原を少し行った所にあるストウブという小さな町が、ここから最も近いということだった。  行商人はさらに東のアバクスという大都市から来ているが、ストウブを中継地点にしているらしい。  念のためシュテフィが描いた簡易的な地図を貰ってきていたが、町まで迷う心配はほとんどなさそうだった。  ほぼ一本道なうえに地面には馬車の轍がくっきりと刻まれていた。同じ道を繰り返し通るため、その部分だけ草の成長が遅いのだ。むしろそれ以外の場所は背の高い雑草に阻まれて入ることができない。  木々の間を抜けながら、ジンはぼんやりと思考した。  シュテフィは、ついて行くと言わなかった。  ジンがこの世界へやって来て初めての外出だった。彼女なら当然のようについて来ると思っていた。忙しかったり他に用事があったりするのならその限りではないが、今は依頼もない。  同時に、ジンには微かに彼女が来ないような予感もあった。こちらの方が当たった。  ひょっとするとシュテフィは町へ行きたくないのだろうか。  薄っすらと心に渦巻いていたある疑念が頭をもたげる。  あの家は客商売には向かないが、身を隠したい者には向いている。  話に聞いていた通りストウブは小さな町だった。  森を抜け草原を少し走ると、次第に道端に家屋が増え始めた。シュテフィに借りた懐中時計で確認すると家を出てから四十分が経過していた。  いかに小さいとはいえ、リヒトに来てから初めて町を訪れるジンにとっては目に入るもの全てが新鮮だった。  建ち並ぶ家々の壁は白っぽい石やレンガで出来ている。屋根は赤や茶や橙色などの暖色系で統一されていた。おかげで街並みが色鮮やかに見えた。ところどころ屋根瓦や壁の石が欠けている家が多い。  小さな町ではあるが活気はあった。いろいろな店が並ぶ商店街のような通りをたくさんの人々が行きかっている。  すれ違う人々の服装をジンはそれとなく観察した。  男性はシャツやベストにゆとりのあるパンツ姿、女性はウエストで絞った丈の長いワンピースを着ている。エプロンを付けている人も多い。生地はどれも綿や麻のような素朴な素材だった。シュテフィのように目立つ格好をしている町人は一人もいない。町が変わればまた違うのかもしれないが。  家に来た行商人の格好を参考に、ジンは手持ちの服の中でできるだけ当たり障りのないものを着て来ていた。そのかいあってか綿の白シャツに茶色のチノパン、黒の革靴姿は周囲に馴染んでいるようだ。ジンはほっと胸をなで下ろした。  異なる世界同士を交わらせることは本来違法だとシュテフィは言っていた。異世界からやって来たことを隠し通すのは当然として、まだこの世界に慣れていない自分は不用意に目立たないに越したことはない。  手持ちの服にも限りがある。もし服を買える店が見つかれば買い足そうと考えた。シュテフィに貰った支度金があった。  自転車を押して歩きながら通りを進むと、やがて石畳が敷き詰められた円形の広場に出た。  どうやらここが町の中心部のようだった。円を囲むように広場の縁に沿って露店が並んでいる。露店の脇に数台の幌馬車が停まっていた。  その中に先日会った亜麻色の髪の行商人の姿を見つけ、ジンは心中でガッツポーズをした。  ついている。たとえ一度きりでも直接顔を合わせた相手の方が、全く知らない他人に声をかけるよりもずっとリスクが低い。  それに行商人はいつも商売のタネを探しているから情報通だ。タダでは教えてくれないかもしれないが、そこは交渉次第だろう。珈琲豆を買いつけ、服屋の場所を聞き、上手くすれば薬を必要としている人の情報も得られるかもしれない。  広場の隅に自転車を停めるとジンは行商人に歩み寄った。 「やあ、この間はどうも」  荷台に寄り掛かり煙草をふかしている男に声をかける。しかし彼は明後日の方向を見ていた。ジンに気がついていないようだ。聞こえなかったのかと思い、今度は目の前でひらひらと手を振ってみる。 「やあ。先日森の奥まで商品を届けてもらった者だ。珈琲豆を買いたいんだが、いいか?」  彼は今度ははっとしてジンの方を見た。  周囲をきょろきょろと見回した後、怪訝そうな顔で自分の顔を指す。俺? とでも言いたげだ。目の前に立って話しかけているのに他に誰がいるというのだろう。  もしや初対面だと思われて警戒されているのだろうか。ジンは気を取り直して笑いかけた。 「悪い。一度きりじゃ顔を覚えられないのも当たり前だよな。ジンだ。今後も贔屓にさせてほしいから、これを機によろしく頼むよ。今日は珈琲豆を売ってもらえるか?」  警戒心を解こうとできるだけ柔和に話しかけた──つもりだったが、行商人は困ったような曖昧な笑みを浮かべた。何かがおかしい。ジンが違和感に気づいたとき、煙を吐いた彼が口を開いた。 「△■×※☆○▼□×」 「え?」 「●□※△○、■□▽◎×△☆※▲□」  さっぱり何を言っているのか分からなかった。  ジンが困惑しているのが伝わったのだろう。彼はしばし考え込むように首を捻ると、今度は身振り手振りを交えて話した。  しかし、やはり何を言っているのか全く分からない。  ジンの耳には彼が異国の言葉を話しているように聞こえた。しかも一度も聞いたことのない言語だ。  やがて行商人は諦めたように口をつぐんでしまった。腕組みをして首を横に振る。どうやらこれで会話を打ち切るつもりのようだ。  ジンとしてもこれ以上どうすることもできず、曖昧な笑みを浮かべながら足早にその場を去った。  突然のことに心臓が波打っていた。  そのとき、ジンは街ゆく人々の言葉が全く聞き取れないことに気がついた。正確には、話している声は聞こえるが言葉の意味を認識できない。先程の行商人と全く同じだった。  一体何が起きている?  これまでシュテフィとは問題なく会話ができていた。何より数日前にあの行商人とも話している。そのときと今とで一体何が違うのだろう。  原因を追究するべく、ジンは町をさまよい歩いた。  分かったことは誰の言葉も理解できないということだった。  露天で焼きたてのパンを掲げる女将の売り文句、路上で昼間から酒盛りをする男たちの飛ばす冗談、往来を駆け抜け何かゲームをしている子供たちの掛け声。皆同じ言語を話していることは確かだが、ジンには何一つ理解できない。  町の中心部に他の建物と少し違う雰囲気の建物が建っていた。  灰色の石造りで中央に尖塔を据えた小さな城のような外観だ。正面の窓にステンドグラスがはまっている。重厚な扉の向こうに老若男女を問わず人々が吸い込まれていくところを見ると、どうやら教会のようだった。この世界にも神のような存在があるらしい。ジンはその庭先の植え込みの縁に座り込んだ。  思いがけない事態に全身がどっと疲れていた。  これでは聞き込みや宣伝はおろか買い物すらできない。  考えれば考えるほど当たり前だと思わされるその事実に、今まで気づかなかったことが情けなかった。  ジンが話しているのは元の世界の言語、日本語だ。むしろこの世界で無条件に通じる方がおかしいのだ。  これまではシュテフィと当たり前のように話せていたため全く気がつかなかった。そこにどんなカラクリがあるのか分からないが、むしろ今の状態の方が正常だといえる。  今日のところは一旦家に戻るしかないのだろう。ジンはがくりと項垂れた。まだ見ぬ神に手を差し伸べてほしいくらいだ。無収獲で戻ることを考えると気が重かった。 「ねぇ、あんたなんでそんなしんきくさい顔してるの」
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