第二章 少女と罪

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 ふいに聞こえた声にジンは耳を疑った。  意味が、理解できる。  顔を上げると目の前に一人の少女が立っていてこちらを見ていた。  年齢は六、七歳ぐらい。肩まで伸びた金色の癖毛は毛先があちらこちらに向いている。少女はフリルのついた生成り色のエプロンドレスを着ていた。まるで人形のような端正な顔の真ん中で、二つの勝気そうな琥珀色の瞳がじっとジンを見つめていた。  ジンはあっけにとられてぽかんと口を開けた。  少女は露骨に眉根を寄せた。 「むし? それともあんた口きけないの?」  どうやらかなりのせっかちであるらしい。 「いや、きける。話せるよ。ただ君が俺に話しかけてきたことにちょっと驚いてたもんだから」 「なにそれ。にんげんなんだからこどもでも話くらいできるわよ」  少々舌足らずな口調で少女はせせら笑った。  君はなんで俺の言葉が分かるんだ。そう尋ねようとしたジンの視線が、少女の足首に釘付けになった。  怪我をしている。それもなかなかシャレにならない出血量だ。足首の太い血管を切ったのか、スカートの裾から覗く白い靴下が痛々しく真っ赤に染まっていた。 「おい足、血が出てるぞ。お前、怪我してるのか」  思わずぎょっとして立ち上がると、少女は痛がる素振りも見せず、なぜか仁王立ちでジンを見上げた。 「そうよ。だからお医者さん、つれてって」 「え?」  咄嗟にジンの頭に浮かんだのは、誘拐の二文字だった。  未成年の少女と成人男性。特に成人男性にとっては必要に迫られない限り避けた方がいい組み合わせだ。元いた世界なら十中八九アウトだ。この世界の法律がどうかは知らないが、仮に蒸気の時代でも客観的に見て理由なく安心できる組み合わせではないように思えた。  さらに、もし今誰かに見とがめられて追及された場合、ジンは意思疎通が図れず支離滅裂な言語を喋る容疑者ということになる。それは、まずい。  即座に脳内を駆け巡った無数の言い訳をジンは振り払った。  目の前に怪我をした子供がいる。それが理由だ。  ポケットに入れていた十徳ナイフのハサミでシャツの片袖を切り落とすと、少女の出血している足首にしっかりと結んだ。  ストウブを出ることになるが、シュテフィの所へ連れて行くつもりだった。というか他の人間と話せないジンにはそれ以外にできることがない。彼女なら少女の怪我を治せるだろうし、いざとなれば弁明してもらいたい。自分でも情けなくなるほど無力だったが致し方ない。  町を出てもいいかどうか尋ねると少女はあっさりと頷いた。  歩かせるわけにもいかないので少女を背負って自転車まで運ぶ。幸いにも町を出るまで誰かに声をかけられることはなかった。  少女を荷台に乗せた自転車に跨ったとき、ジンはまだ名前を聞いていないことに気がついた。 「俺はジンだ。お前、名前は?」 「アンネリーエ。名医じゃなきゃいや」  まったくなんという日だろう。ジンは正気を取り戻すように両頬を叩いた。少なくともその願いは叶えられるはずだ。 ◇ ◇ ◇ 「ジン、戻ったか! すまない、肝心なことを──」  ジンが家の前に自転車を停めたタイミングで、慌てた様子のシュテフィが家から飛び出してきた。スタンドを立てる音で気がついたのだろう。  荷台に座っている少女を一目見て彼女は目を丸くした。 「その子は?」 「ストウブで保護した。足を切ってるみたいなんだ。シュテフィ、診てやってくれないか」 「ああ、もちろんだとも」  十数分後、作業台の椅子に腰掛けたアンネリーエの左足首には丁寧に包帯が巻かれていた。  再生能力の高い洞穴ナメクジの粘液に消炎効果のある魔法香草を数種類配合した特製の軟膏。数センチの傷ならば縫う必要もなく跡形もなく治るらしい。血はすでに止まっていたが、だいぶ失血したらしく少女の顔色は白かった。そのため、シュテフィに言われるがままジンが作った増血効果のあるベリーティーを飲まされている。  治療中、アンネリーエは一言も喋らずおとなしくしていた。ただ軟膏を塗るシュテフィの顔をじっと見つめていた。 「助かったよ。具合、どうだ?」 「あの程度の傷ならば一週間もしないうちに治るだろう」 「そうか。よかった」 「ただ動脈を傷つけていたからね。出血量が多かった。咄嗟の止血は正しい判断だ」 「そうか。まったく肝が冷えた」  キッチンの壁に寄りかかりジンは安堵のため息をついた。少女に聞かれないよう声をひそめる。 「一体どこであんな傷をつけたんだろうな」 「そのことだが。あれは咬み傷だった」 「咬み傷?」 「ああ。間違いなく肉食の獣の歯で咬み裂かれた傷だ。それも今回が初めてじゃない。少なくとも十回以上は同じ箇所を傷つけられて治療した跡がある」  ジンは眉をひそめた。単純な怪我だと思っていたのだが何か複雑な事情がありそうだ。  シュテフィは口元に微かな笑みを浮かべた。 「他にも気になることがあってね。まあ本人に直接聞くのが早いだろうね」  そう言うと彼女は先程まで治療中に腰掛けていた作業台の椅子に座った。両手でマグカップを抱えているアンネリーエの前に位置取り、前傾姿勢で目線を合わせる。 「さて少女よ。君は一体何を話してくれるのかな」 「アンネリーエ。アンネでいいわ」  妙な問い方だとジンは思ったが、予想に反してアンネは明瞭に話し始めた。まるでそう尋ねられるのをずっと待ち望んでいたかのようだ。 「まず、ちりょうしてくれてありがと。あなたうでがとってもいいのね」 「それはどうも」 「ほうたいをまくのもうまいし。さいちゅうもぜんぜん痛くなかったわ」 「まあ縫合していないからね」 「そう! あんなちりょうほうもはじめてだわ」 「ふむ。あの軟膏は私のオリジナルだからね」 「きっとゆうめいなお医者さまなんでしょうね」 「おいおい、あまり買い被られては困るよ。私はあくまで調合師なんだ」 「でも今までの人の中でまちがいなくダントツに一番うまいわ」 「まったく困った女の子だね、君は。ジン、棚にクッキーの残りがあったかな」 「子供のペースに乗せられるな」  思わずジンは座るシュテフィの頭に手刀を落とした。いたっと声を上げた彼女が患部を押さえて苦笑する。 「うでのいいお医者さまにぜったいにたすけてほしい人がいるの」  その呟きは、突如として呑気な空間にプラスチック片のような異物感を伴い刺さった。少女は真っ赤な顔で下を向き、堪えるように唇をぐっと噛み締めている。  少しの間が空き、真剣な声色でシュテフィが問う。 「その人は誰?」 「……あたしのおじいちゃん」 「病気なのか?」 「うん。そのせいで死にかけてる。ほんとうならまだずっと長く生きられるの」  ふいにジンはアンネに声をかけられた理由が分かったような気がした。否、断定はできないし未だ何もかも謎だらけだが。  なんとなくこっちが彼女の本命のような気がしたのだ。 「詳しいことは実際に診てみなければ分からないが……おじいさまの病気はいつからかな? 医者にかかったことは?」 「三年くらいまえ。せんめつせんでつかわれたかがくへいきにやられたの。お医者さまにみてもらったことは……ないわ」 「……その当時、おじいさまの住んでいた場所は」 「クノッヘン。いまもずっとそこにすんでるわ」  そのとき、急に場の空気が緊張するのをジンは感じた。  うっかり声もかけられないような緊迫感だ。怪訝に思い、二人の様子を伺うが互いに一言も発しない。  やがて長いため息をつき、シュテフィが沈黙を破った。
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