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プロローグ
その声の主は花の香りがした。
「月桂樹の根を一摘み、マンドレイクの涙を三滴、春の上弦の月夜の空気と火炎蜥蜴の尻尾の煎じ薬、だったか──────はて火炎蝙蝠だったかな」
木の天板に重い陶器を置く音、大判の本のページを捲る音、カチャカチャとぶつかり合い騒々しく鳴るガラス瓶の響き。
それらの背景に木々のざわめきが聞こえる。葉音に小鳥の声が混じる。澄んだ空気はわずかに流れていて時折そよ風が頬を撫でていった。まるで深い森の中にいるような心地だった。
重い瞼をかろうじて持ち上げるとぼやけた視界で影が動くのが見えた。やがて影がこちらに気がついたように動作を止め、足音が近づいてくる。
視界が陰になり、花の香がぐっと強まる。
「お目覚めかな? でもまだ調合が終わっていないんだ。それに今目覚められると少々都合が悪くてね。悪いが君もう少し寝ていてくれたまえ」
足音が再び遠ざかっていった。次に戻って来たとき微かにアルコールの香りを纏っていた。花の香がまた強くなり、そこに女性の匂いが溶けていることに気がついた。吐息が顔にかかり冷たい指が頬に触れる。
次の瞬間、首筋に痺れるような痛みが走った。
「少々乱暴だがまあ治療の一環ということになるだろう。今の君に最も必要なものは休息には違いないからね」
音色の良い風鈴のような声が次第に遠ざかり意識が薄れてゆく。
完全に途切れる瞬間、その香りの正体に気がついた。
スイセンだ。
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