僕の中のボクと君の中のキミが出逢ったら

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 スルッと男の前に回り背中でクラクションを派手に鳴らした。鳴らし続けていれば誰かが気づいてやってくるかもしれない。それに期待するしかない。社長は引き離そうとするが、遥香も負けていられない。狭い運転席でもみ合うようにしていると、タクシーが後ろに滑り込んできた。  ドアが思いきり叩かれる。  顔をあげると徹が立っていた。安心したとたん脱力した。クラクションが鳴りやみ、静寂が訪れたところでドアのロックが解除された。  遥香は急いでドアを開け、徹の胸に飛び込んだ。 「わたし、頑張ったんだよ。頑張ったの。怖くて、怖くてどうしていいかわからなかったの」  社長が車から降りてきた。 「暮林さんが途中で気分が悪くなったみたいで、車内で介抱してました。ああ、結婚するんだってね。おめでとう」  徹はチラリと一瞥し、渾身の力で腹に一発みまってやった。社長はよろめき、悪態をついていたが振り返りもせず待たせたタクシーに乗り込んだ。  遥香を抱きかかえ、間に合って良かったと心底安堵した。  会社と武蔵小杉をつなぐ道をタクシーで追いかけ、見覚えのある赤のVOLVOを見た時はホッとした。ナンバーは事務所を出る時、固定資産台帳で確認しておいた。  路肩に寄せてもらおうとしたところで突然クラクションの音が鳴り響いた。  何があった。遥香は無事か?  胸に飛び込んできた遥香を抱きしめ、社長をねめつけた。今まで一度も経験のない暴力を振るってしまった。  遥香は退職し、顧問契約も打ち切った。社長からは結婚祝いと称して過分なご祝儀が振り込まれていた。口止め料だろう。受け取るかどうか悩んだが、所長がもらっておけというのでそのままにした。  所長に正式に遥香を紹介した。泣いて喜ぶ彼に、徹と遥香も一緒になって泣いた。  遥香は児童養護施設育ちで徹の祖父母はすでに他界している。そんな二人のために所長がささやかな宴を設けてくれた。ホテルの有名な和食レストラン。幸薄い二人だったが、これから幸せになっていけばいいのだ。いや、四人か。  慎ましやかながらも幸せな新婚生活のスタートだった。 「一度、遥香が生まれ育ったところに行ってみたいな」 「田舎の地方都市よ。たいして面白いところじゃないわ」 「そんなのかまわないよ。俺は遥香のことを丸ごと受け止めたいだけだから。過去を含めてね」  遥香は嬉しそうに徹の胸に身体を預けてきた。  江戸時代に栄華を極めた息遣いがところどころに残る、美しい街並みだった。住人が今でも誇りと思っているのだろう。ゴミひとつ落ちておらず、新しい住宅の中に点在する、いまや登録文化財となった古民家にかつての隆盛が忍ばれた。  城跡の周囲にはられた堀では鯉がはね、桜が植えられた土手は春に訪れたいと思わせる。  美央は桜が見たいといっていたな。桜の季節にまたこよう。桜の下ではしゃぐ美央を思って顔がほころんだ。 「きれいなところだね」 「古いだけよ。昔の因習にとらわれていて、新しいことには消極的。都合の悪いものはすべてなかったものにする」 「まあ、どこも似たようなところはあるな。遥香がここにいたと思うだけで、俺は胸がいっぱいになるよ」  とかく地方は排他的であるといわれるが、大都市でも同じだ。新旧対立は政治、経済、業界、会社と枚挙に暇がない。どちらにつくか、たいていの人間が日和見している。  その狭間でとばっちりを受ける人間がいることなど思いもよらない。いや、なかったことにしているだけだ。気づかなければ、知らなければ、自分は正しいと思える。  キレイごとを並べれば聖人だと思ってもらえる。朽ちた家の外壁を安っぽい化粧板で見栄えよくするようなものだ。  弱いから。  弱い者はさらに弱いものを見つけて、這い上がれないようにする。それが人間だと言わんばかりだ。聖人君子を気取るなら、ずっと仮面をかぶっていればいいものを。 「誰か会いたい人いる?せっかくだから尋ねてみる?」  徹は頭を振り払い、遥香に聞いてみた。 「そうねぇ。施設をでたらみんなバラバラになるから、ここに残っている人はそんないないと思うけど、」 「施設に行ってみる?当時の職員とか懐かしくならない?」 「うん、そうしようかな。勉強を教えてもらったり、相談にのってもらったり、いろいろお世話になった人がいるの。年の離れたお兄ちゃんみたいな、お父さんみたいな人」  結婚の報告を兼ねて挨拶に行くことにした。中に入ると口々に顔見知りの職員に声をかけられた。みんなほがらかにお祝いの言葉を述べてくれる。  応接室で待っていると、日焼けした50代の男が現れた。これが当時世話になったという大橋という男だ。  二人に向けた柔和な笑顔を見て、子供たちにも慕われているんだろうな、と徹は思った。 「やあ、遥香ちゃん、一ノ瀬さん。この度はおめでとうございます。遥香ちゃんはいい子だから、よろしくね。遥香ちゃんの幸せそうな顔を見ることができて嬉しいな。それにしても元気そうで、あれからどうしてた?」  遥香が笑顔で近況を語り始めた。美央や淳のことは伏せたままだが。 「あ、」  一瞬、遥香の体勢が崩れた、と思うと顔つきが変わった。 「遥香、どうした?」  お酒を飲んだかのように目が据わり、男に向ける顔が憎悪でいっぱいになった。遥香ではない。では、美央?でもなぜ? 「謝れよ、遥香に謝れよ。何をのうのうと生きてるんだよ。このクズ野郎が」  さっきまでとうってかわっていきなりの罵声である。男が目をひきつらせ、椅子から立とうとする。 「逃げるんじゃねえよ。さんざ、遥香の身体をおもちゃにしてただろう。その汚い身体でセックスしまくってたじゃないか。この豚野郎!」 「徹さん、いったい彼女はどうしたんだ。頭がおかしくなったのか?」  男が助けを求めるようにこちらを見た。完全に怯えた表情だ。 「どうしたもこうしたもないだろう。おまえに汚されたんだ。謝れよ。さっさと土下座して謝れよ」 「何をいってる。おまえだって、さんざ悦んでたじゃないか。今さら何をいいたいんだ。同意だっただろう」  立ち上がろうとした美央をとっさに抑えながら、徹は何が起きているか悟った。この男に性的虐待を受け美央が出現したのだ。と、その時頭が痛くなってきた。 「てめーか、てめーが遥香を弄んだのか。ふざけんじゃねぇ」  頭の片隅で淳がわめいているのが聞こえてきた。自分の身体なのにコントロールがきかない。徹の意識がありながら淳が現れている。  男がドアに後ずさりしていく。淳は飛びつき、馬乗りになった。こぶしをギュッとにぎり、今にも振り下ろそうとする。慌てた徹は理性を総動員して淳を止めた。左手で右手を払う。そのまま奇妙なかたちで床を這いまわった。ギクシャクとした不自然な動きは、不気味に見えたことだろう。ふたつの人格が肉体を奪い合っているのだから。 「徹、邪魔するなよ。おい、待てよ」 「逃げんじゃないわよ」  立ち上がった男に近寄ろうとした美央を突き飛ばし、男は駆け出していってしまった。 「助けてくれ」  騒ぎを聞きつけた職員が何人かやってきて、二人を押さえつけた。興奮状態だった淳をなだめ、続いて美央も落ち着かせた。  意識を失わない状態で良かった。不幸中の幸いだ。  2人の職員に監視されながら施設長を待っていると美央がみじろぎした。 「徹さん?」 「遥香か。後で事情を説明するから、とりあえず何が起きても驚かないように」  とはいえ、美央が受け持った記憶を知らせるのは遥香にとって青天の霹靂だろう。どうするか。  施設長がやってきた。遥香が不安そうにこちらを見る。  無理だな。下手したら別人格が現れてしまうかもしれないし、ずっと中に引きこもってしまう可能性もある。 「すみません、お騒がせしまして。実はわたし乖離性同一性障害という疾患を抱えてまして、先ほど別人格がでてしまいました。にわかには信じられないでしょうから、少し説明させてもらいます」 「えっ、そうなの?どうして?」  遥香が困惑した顔で徹を見あげた。 「遥香、ここで自分のことを説明することにしたけど、恥ずかしいから席をはずしてもらってもいいかな。大丈夫。後でちゃんと説明するから」  小声で「さっき美央が出たでしょう。どうして」 「ああ、それもちゃんと説明するから。美央が急にでてきて疲れちゃっただろう。少し休んだ方がいいかも。大丈夫だから、心配しないで」  徹は遥香を安心させるように抱きしめ、顔見知りという看護師に遥香を預けた。
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