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春(円歌編)
大学生活が始まり新たな生活が始まった。髪の色を明るいピンクブラウンに変えて気分を上げて、新しい場所に住み、まだ慣れない通学路を使う。新しいことを学び、写真サークルに入って、バイトも新しく始めた。たくさんのことが変わり始めた新しい環境の中で、それでも変わらずに私の隣には葵がいた。
「おはよう円歌」
「……おはよぉ」
朝は葵が必ず起こしてくれる。葵はいつも私より遅く寝ているのに、いつだって私より先に起きている。
「今日講義は?」
「……多分午後」
「多分て。早く確認しなさい」
「は~い」
用意してもらった朝食を食べながら、寝起きからシャキッとしている葵に一日のスケジュールを確認される日々。まるでお母さんみたい。
「先出るからね」
「もう?いってらっしゃーい」
「ん……いってきます」
お母さんとは違うのは、いってきますのキスをすること。おかえりでもおやすみでもいいけれど、一日一回はこうしてキスをするようにしていた。
やはり大学の講義は午後からで、ゆっくりと準備をしてから家を出た。葵と晴琉と同じ大学に進学したけど、全員違う学部だった。私は文学部で葵は経済学部、晴琉はスポーツ科学部。寧音は有名な大学の心理学部に合格していた。私たちとは違う大学に進学してしまって寂しい気持ちもあるけど、難関と呼ばれる大学に合格したことを何故か私まで誇らしく思っていた。
「おはよう円歌」
「おはよ」
午後に大学のレクリエーションで仲良くなった子と講義を受けた。写真サークルに入ってまた本格的に写真を趣味にして新しい人との繋がりも増えていった。心配なのは学部の違う葵の人間関係だった。サークルにも入らずに静かに一人で授業を受けているという状況だということを、何となく話しぶりから察していたのだった。バイトも極力人と対面するのは嫌だと言ってまだ探している途中だった。
出会った小学生の頃からずっと私が傍にいて、部活の時は晴琉がいたから、葵が自分から交友関係を広げていくところを見たことがなかったと思う。今までそれで問題がなかったから気にしていなかったけれど、今更ちょっと責任のようなものを感じてしまう。葵は一人でも大丈夫だと言うし、私があまり口出しすることではないのかもしれない。しかし四年間黙々と一人で過ごすつもりなのかと思うと気がかりではあった。
「ただいま」
「おかえり」
講義を終えてバイトに行って葵の待つ家に帰る。帰る場所に葵がいることが当たり前になってきていることに幸せを感じていた。家事は大体半分くらいに分けている。今日は葵がご飯を作ってくれる日だった。私はお菓子を作るのは好きだけれどあまり料理には興味がなくて、葵の方がきっちりと栄養バランスを考えておかずも何品も作ってくれていた。
「わぁ、すごい。いただきます」
付き合いが長いからお互いの食の好みは把握している。食べている途中で葵がおかずにこっそりと私が嫌いな食べ物を仕込んでいることに気付く。露骨に嫌な顔をしたら葵も私が気付いたことに気付いたようだった。
「円歌。好き嫌いしないの」
「ねぇ子供じゃないんだから。こういうことしないでよ」
「じゃあニンジンくらい食べなさい」
「あとその口調やめて。もっと、なんか、恋人同士何だからさー……」
安定している、といえば聞こえはいいのかもしれない。葵と付き合って2年以上になる。恋人らしいことは高校時代に自由に出来なかった分、存分に愛情は受けていた。それでも元々知り合ったのは小学生の頃だから、なんというか、普段の私たちの関係性は落ち着いていた。
「じゃあほら、あーん」
「そんな真顔でしないでよぉ」
葵はすごく面倒くさそうな顔をしている。私は葵が箸で差し出してきたおかずを無視して食事を続ける。葵は私が不貞腐れて起こす行動を気にしない。私もフリをしているだけだから特にケンカになることはない。
「一緒にお風呂入る?」
「いい」
食器を洗っている葵を誘ってみるけれど、こちらを見ずに断られた。これはいつものこと。葵はたとえ恋人の私であっても裸を見られるのが好きではない。私の服は毎晩のようにすぐ脱がそうとするけれど。それでも毎日のように誘ってみるのは運試しみたいなものだった。
「明日早い?」
葵と同じ時間にベッドへ潜る。葵がこうして明日の予定を聞いてくるのは、朝に私を起こすためではない。
「んー……早い」
「ん、わかった」
わかったと答えながらも葵の手は私の服にかかっていた。早いと答えたところですぐに寝かしてくれるわけではない。ただいつもより早めに寝かしてくれるというだけだ。しかしどれだけ短い時間であっても、葵は確かに愛情を与えてくれていた。
「そういえば葵。バイト見つかった?」
「……なんで今」
機嫌よくキスをしていた葵の動きが止まった。間接照明だけの薄暗い部屋でも怪訝な顔をしているのがよくわかる。
「聞いただけじゃん。不貞腐れないでよ」
「……ちゃんと探してる」
「ならいいけど」
「……円歌。恋人同士の時間なんだけど?」
「ごめん……そうだ、明日の午後暇だから、デートしよ?」
雰囲気を壊したお詫びにデートに誘う。デート、という言葉を聞いて葵の機嫌が戻ったのがわかる。これだけ毎日一緒にいるのに、ちゃんと私とのデートを特別なものとして喜んでくれる葵が好きだった。
「どこ行く?」
「明日考えておくから……早く続きして?」
軽く触れるだけのキスをしたら葵はまた機嫌よくキスを再開した。私たちの日常はこんな感じで、適度に甘い生活が私には心地が良かった。
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