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黒い石①
その日、兵馬は思いがけずの雨に打たれて、なんの変哲もないありふれた飯屋の軒先に駆けこんだ。
幸い仕事をした後だったので幾らか金はある。しとしとと降りしきる梅雨の中、ちょっと腹ごしらえに時間を遣うのも悪くない、と思うことにした。見れば看板代わりに垂らしたむしろに、麦飯、とろろ、と書き殴られている。
「親爺、とろろ飯をおくれ。団子か何かあると一層良いのだが」
前の客の後片付けをしていた飯屋の親爺が「へいへい」と、兵馬を軽くあしらった。
まあまあ横柄な態度だったが、中堅旗本の次男坊なんぞをやっている兵馬はそんなことを気にしたりはしない。入口に近いかけこみの席に腰を下ろして店の中を見渡した。
外は雨だから昼下がりであっても店の中は暗い。店には先客が何人かあって、奥の一席では男たちが額を寄せてひそひそとやっていた。三人いるうち二人は町人風だが、もう一人は兵馬と同じ年恰好の御家人か小旗本といった風情である。
「へい旦那、麦飯お待ち」
見るともなく三人組の気配を探っていると、店の親爺が盆にどんぶり飯とすり下ろしたとろろ芋を運んできてくれた。旦那呼ばわりはむず痒い。
いくらだい、と聞くと十文で、と言うので少し多めに手渡した。
「ちょっと雨宿りさせてもらうよ」
そう言うと親爺は心得て、ごゆっくり、と応えた。
◇◆◇
六月の雨は言わずと知れた梅雨で、表町であるこのあたりはそうでもないが、浜の方へいくと足元は泥だらけになる。
御府内とは言え、神君家康公がその本拠を江戸に定めるまでは、この地はほとんどが芦原で、その半ばまでは海だったというから水捌けがどうもよくない。だから雨が続くと排水が追い付かず、あちこちにぬかるみができてしまうのである。
兵馬が独居をしている両国界隈はさほどでもないが、実家の屋敷がある芝辺りは、そろそろ泥かきをせねば荷車の往来などに支障がある頃合いだろう。
降りしきる雨に物思いをさらしながら、兵馬はぬるい茶をすすって箸を手にした。よく摺下ろされた山芋がねっとりと箸に絡みつく。ぷんと香る芋の匂いがにわかに食欲を刺激した。
麦飯の上にとろろをどろりと流しこみ、小皿にほんの少しある醤油を余すことなくかけまわす。
酒も醤油も下りものと言って、上方から運ばれてくるものだからこれがなかなかに高い。なんとか東国でも作れないものか、とその都度思うが、素人の兵馬には思うだけで何ら方策があるわけではない。いつかこの醤油をじゃぶじゃぶ使える日が来ることを密やかに願うしかないのである。
夢想する兵馬が麦飯を半ばまで食い進めた頃合いだった。奥に居た三人組が俄かに騒がしくなった。
「てめえ」
そう言って掴みかかったのは町人体の男で、襟を掴まれているのは若い御家人風の武家だった。町人の方は見るからに人相が悪く、多分懐に刃物を忍ばせている。掴みかかられた武家の方は青褪めていた。
兵馬は小さくため息をついた。勘弁してもらいたいものである。兵馬は揉め事が嫌いであるし、心得はあるとはいっても剣は不得手だった。
もし喧嘩にでもなったら十中八九負け試合になるだろう。そう思っていると、案の定、助けを求めるように店の親爺が兵馬に視線を送ってくる。質の悪いことに、喧嘩はからきしなのに兵馬の風貌はと言うとちょっと悪くないのである。大変に迷惑な話だった。
「……旦那」
ついに親爺が兵馬の袖を引っ張った。仕方がない。剣はからきしだが、口は達者な方である。最近勤めのほうでもはったりや脅し賺しをふんだんに使うから、修羅場はお手の物である。まあ、なんとかなるだろう、という気がしないでもない兵馬だった。
緩慢に、しかし隙は見せないように兵馬はじりっと立ち上がる。するともう一人の町人が周囲の視線に気づいて「見せもんじゃねえぞ」とお決まりの啖呵を切った。兵馬は余裕を装って笑みなぞ浮かべる。
「まあまあ兄さん方」
そう言って兵馬がいなしにかかった時だった。不意をついて若い武家の男が手にしていたものを、襟を掴んでいる男に向けて投げつけたのだ。
それはばらばらとしたもので、なかなかに硬いものであったらしく、まともに顔面に受けた町人は悲鳴を思わずあげてしまった。
御家人男がぱっと走り出したのはその瞬間で、追いすがる町人たちをのらりくらりと躱して、見事に店の外に飛び出したのである。
無論、悪漢たちは後を追おうと通りに飛び出したが、運の悪いことに軒先を通りかかった土地の御用聞きと鉢合わせてしまった。
「おい何の騒ぎだ」
下っ引きを連れた親分にそう凄まれて二人組は口ごもる。別になんでもねえ、と誤魔化した後店の中を振り返って、男の内一人が兵馬を凄い目つきで睨みつけた。
はた迷惑な。と思ったが、つい睨み返してしまう。腕っぷしでは敵わぬだろうが、兵馬も負けん気はそこそこにある。若いのも手伝ってか、侮られるのはあまり良い気分ではない。
「ところで、旦那は何かご関係が?」
様子を見ていた御用聞きが、慇懃に兵馬へ話しかけた時だった。
二人組が隙をついて通りに逃げたので、御用聞きの親分は「てめえら待ちやがれ」と怒鳴りつつ、若い下っ引きに後を追わせた。
親分の方は落ち着いた足取りだったが、去り際に兵馬をちらりと振り返ったとき、口に出しては何も言わず、軽く会釈をしたのに少し驚く。どこかで面識があったか、とも思ったが珍しく兵馬の記憶にはないのだった。
騒ぎが雨の通りへと去って店の中が静かになると、兵馬は何もできなかったのにも関わらず、親爺が「お蔭様で」と労ってくれた。
バツの悪い兵馬は「いや」と口ごもりながら視線を足元に落としたが、そこに散らばっているものに気付いて、そのうちひとつを摘まみ上げた。
「なるほど。賭け碁かな」
兵馬が拾い上げたのは黒い碁石だった。無人になった奥の台には碁盤と白黒混じった碁石が散乱している。
何とはなく摘まみ上げた碁石を透かし見てから袂に入れた。兵馬は親爺に「また来る」と声をかけて店を出た。
雨はさっきよりは細くなったがまだまだ降るつもりのようである。ちょっと走ればそれほど濡れずに独り住いに帰り着く程度だろう。
袂には昼前に受け取った仕事の報酬と黒い碁石があって、それは時折指に触れた。黒々と雨雲が立ち込めてはいるが、西の端の方は薄明るい。明日は梅雨も中休みだろうか。駆け戻る独り住いに、何とはなしに待つ人がある予感に包まれて、兵馬は何の確証もなかったが少し浮き立つ足で水しぶきをあげて走るのだった。
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