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「エリザベスが――消えた?」  翌朝、開戦の知らせとそれに伴う異動の発令により騒然とする軍部内。その一角で、動転した様子のジャックから報告を受けたロナルドは、剥き出しの額を抑えて唸った。 「昨日の夜、約束通りカーニバルに一緒に行くために彼女の部屋に行ったんだ。そしたら留守で。試しに、扉を捻ったら鍵が開いててさ。声を掛けながら部屋に入ったんだけど、やっぱりエリーはいなくて」 「おま……一人暮らしの女性の部屋にズカズカと入るなよ」 「いや、別に施錠してたら入らないけど、鍵開いてんだよ? 家いないなら不用心だから、不審者に備えて俺が待機した方がいいかなって思ってさ」 「そこにエリザベスが帰宅したなら、不審者は間違いなくお前のことになるがな」  ロナルドの嫌味はジャックの耳に入らなかったようで、ジャックは急いだ口調で続ける。 「家いるなら返事がないってのは緊急事態かもしんないしさ。でもいなかった。だから一晩中待ってた、のに帰ってこないし」 「出勤もしていない、か」 「あの真面目なエリーがだよ!? これは何か事故か事件に巻き込まれたとしか思えない!」 「そうだな」  微かに頷いて、ロナルドは瞼を閉じる。この出来事が昨日までに起きていれば、ジャックの考えが合っている可能性が高い。しかし今日は、大国と十六年ぶりに戦争が始まった日。他の可能性も考慮しなければならない。 「出兵に怯えて逃げ出した、という線もあるな」  今朝から軍内が絶えず忙しない理由の一つでもある。最前線に送られることがわかった者のうち数人は、その場で逃走を図ったようで大捕物と化していた。それに無断欠勤する者も多数。 「えっ、エリーが!? 出兵って……あの子は軍属だけど、事務職員だよ?」 「非常事態だからな。まずは俺たち戦闘員から、死傷者多数により戦力が不足すれば事務職員からも動員されることは予想できるだろう」 「でもエリーは確か戦争には賛成してたし、自分が犠牲になっても構わないって感じなこと言ってたような」 「ああ。それでも死の匂いを目前に感じて臆した可能性は否めない」 「そんな……。でも自分の意思で逃げたんならどこかで元気にしてるってことか。それは一番いいことかもしれないけど」  ジャックはショックを受けつつも、エリザベスが生死を争う状況ではない可能性に気付き、ならばと安堵の息を漏らした。  敵前逃亡は、同じ軍人としてははらわた煮え繰り返ることだろうに、まったくジャックという男は甘い。しかし、それが彼の良い点でもある。かく言うロナルドだって、エリザベスが無事ならいいと願っている。  いる、が。  ロナルドにはどうしても、引っかかることがあった。 「うん。エリーが戦争の被害が及ばないどこか遠くに行ってくれてれば。もう二度と会えなくても、どこかで元気なら。俺はそれでいいかもしれな」 「――なぁ、ジャック」  納得しかけていたジャックにロナルドは意を決して問いかけた。 「スノードロップって花、知っているか?」 「は? なに急に」 「いいから。知っているか?」 「俺が勉強苦手だと思っていじわるしてんの? でもそれくらい知ってるわ! 花ん中じゃメジャーどころじゃん。タンポポとかチューリップとかその辺りと並んでさ」 「そうだよな、腐っても自然の摂理を理解する魔導士だしな、お前も。で、見たことはあるか?」 「腐っても、は余計だわ。そりゃー当然、」  ロナルドは無意識に唾をごくり、と飲み込んだ。 「ないよ。大陸最南端、温暖な我が国で雪の中に咲くっていうスノードロップを見られる場所なんて、いくら北に行ってもないだろうな」  ぎりりと奥歯が軋む音がした。  そうだ。ロナルドもわかっていた。なにせ自分自身、北部地域の出身だ。冬場に雪が降ることはあれど積もることなどそうそうない。あの花が咲くほどに雪深く凍える地域は、この国にはない。  だからこそ、ロナルドは自身の魔導のモチーフとして、スノードロップを選んだ。  今は対立しているイワチェリーナ帝国で、春を告げる花として愛されているスノードロップ。いつか彼の国と友好を結び自由に往来できるようになれば、肉眼で可憐なあの花を見ることもできる。そんな時が来るように、と祈りを込めた。  わかっていた。ただ、認めたくなかっただけだ。どっどっどっと早鐘のように打つ心臓の音がうるさい。浅く息を繰り返して、ロナルドが絞り出した声は、どうしようもなく震えていた。 「エリザベスが言っていた。彼女の生まれ育った村では、スノードロップが雪解けを告げる花として親しまれていた、と」  一瞬、虚を突かれたように口をぽかんと開けたジャックは、その言葉の意味を理解すると固く目を瞑った。 「なぁ、それ……あれだろ、他の花をエリーたちがスノードロップだと信じ込んでて、とかさ。いやあれだな、突然変異がたまたま、ほんとにたまたまその村にあって、全然知られてなくて」  ジャックの妙に明るい声は、無様に宙を滑り的を射ない。そう、ジャックもロナルド同様認めたくないのだ。ただ、戦争真っ只中、材料が出揃っていてこの可能性を否定するのは、軍人としてあり得ないだろう。 「考えてみれば彼女の経歴は真っ白だった。前国王が貧富に関わらずすべての子に教育を、と推し進めた初等教育すら受けていない。そして、孤児。身分を証明する物も人もない」 「だからと言って、」 「ジャック。あくまで可能性、だ。エリザベスは、実はイワチェリーナ帝国で生まれ育ったんじゃないか? そして、その事実をあえて語らず、寧ろ偽って俺の補佐として軍部にいた。さらに彼の国と開戦した今日、突然姿を消した。となれば――」  ジャックは黙る。優しいその男の金の瞳からは、今にも涙が溢れそうになっていた。 「エリザベスは、イワチェリーナ帝国の軍事スパイなんじゃないか」  ロナルドの声も震えていた。
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