10

1/1
前へ
/21ページ
次へ

10

 幼い頃の記憶はほとんどない。  ただひたすらに寒さと空腹と、不潔ゆえの痒さに苛まれていた。 「腹が減っているのか。なら、うちの畑を耕せ。できたらパンをやろう」 「寒いのか。なら、うちの炊事をやれ。その間だけは家にいていい」  気が付いた頃には、近くにいる大人からそうやって労力と引き換えに施しをもらっていた。大人はいつも不機嫌で暴力的で――たまに村にやって来る綺麗で、だけど怖い大人に怯えていた。その大人が軍人だというのは、後から知ったことだった。  物の道理がわかってくる歳の頃になると、読み書きができる有用さを理解して、必死に覚えた。村で読み書きができる者は大人を合わせても一握りに過ぎず、大変重宝され、肉体労働を軽くしてもらえたからだ。  毎日毎日、その日食べる物を確保するために死に物狂いで働き、飢えと寒さを癒やした。それでも大きな病気や事故に遭ってしまえばそこまで。そうやって死んでいった同類を山ほど見ていた。  何のために生きるのかはわからない。だけど死ぬのは怖い。死にたくないから、だから生きている。 「生きる目的が欲しいか? なら、私のため、国のために尽くせ。お前の命に意味を与えてやろう」  ある日、村に来た綺麗で、だけど怖い大人が私にそう言った。  村からありったけの金と作物と健康な少年を奪い、シミひとつない白い高価な服を着たその男は、私に命じた。 「私と共に来い」と。  こうして私は、エリザベスという名を賜って、イワチェリーナ帝国軍三等兵という肩書を与えられた。  訓練は苛烈だったが、こなすだけで十分な食事と衛生的な環境と寒さを凌げる寝床を与えられたので、天国のように思えた。逃げる者もいたが、私には信じられなかった。  正式に入隊すると、私を拾った男が現れた。ヴィクトルと名乗ったその男は、髪一本生えていない無機質な顔に氷のような目をしており、感情を一切表に出さなかった。しかし、怒声を浴びせる村の大人の誰よりも恐ろしく底知れなかった。  私は彼から、自然の成り立ち、社会の仕組み、素晴らしき我が帝国の歴史、愚かなる民を導く我が軍と敬愛する皇帝陛下、そして悪辣なる外夷のことを学んだ。彼からの指導は厳しく、覚えが悪いと激しく殴られたが、知識が増えこの世の仕組みを理解していくのは嬉しかった。  ヴィクトルがそのように育てている者は、私の他にも三人ほどいたが、交流は禁じられていた。  ヴィクトルはこう言っていた。 「エリザベスには特別な才がある。その才は正しく我が帝国と皇帝陛下の為に使わねばならない。私の指導もすべてその為だ」  しばらくすると、ヴィクトルが育てている部下のうち一人が私の世話係となった。ヴィクトルに代わり、勉強を見るようになったその男の名はセルゲイと言った。 「は? 俺のこと覚えてねーの? お前と同期入隊だぞ?」  初めて会った時、セルゲイはそう言って不快そうに眉を寄せた。 「失礼な奴だ。俺はお前のこと覚えてるぞ。ヴィクトル様の秘蔵っ子か何か知らないが、細くてひ弱できったない女が来たもんだと驚いたからな。見てくれは多少マシになったようだが、細くて非力なのは変わらないな」  セルゲイは意地が悪く、事あるごとに私を嘲った。由緒正しい家庭の子息で、ヴィクトルに心酔しているセルゲイからしたら、貧しく卑しい私がヴィクトルに特別扱いされていることが気に食わないのだろう。しかし、私自身、何が特別なのかもわからない。  それがようやく明かされたのは、私が十八の歳になった時だった。 「エリザベス、お前はこれから果たすべき敵・ミュンエルン王国に行き、大いなる力である魔導を学べ」  魔導のことは習っていた。今から十六年前に起こった世界大戦。肥沃な土地を独占する悪しきミュンエルン王国から、豊かな大地と王族に使役される無辜の民を救うために戦った我が帝国。 科学技術にも優れ、優秀な兵を多く抱える我が帝国軍とちっぽけなミュンエルン王国軍の戦いは、我が帝国軍が圧勝するだろうと内外にも思われていた。しかし、戦力も大差があるはずの大義ある戦いに、我が帝国が惜しくも敗れてしまったのは、ミュンエルン王国が独自に研究している、魔導という不思議な力によるものなのだと。まるで物語に伝わる魔法のように、嵐を起こし雷を降らせ、重傷を負った兵士をみるみる回復させ、もしくは人体の範囲を超えたパワーを呼び起こしたのだと。  敗戦を機に、我が帝国軍もその力を物にしようとはしたそうだ。しかし、魔導を扱うとなると、我が帝国には文献の乏しい古代語の解読や、自然の摂理や人体の構造などありとあらゆる知識が必要となる。さらに言えば、それらを完璧に習得したとて、才ある者しか操ることはできない。 「戦時中、捕虜から奪取した魔導具なるもののお陰で、素質を持つものかどうかの判別は我が帝国軍でも可能となった。だからエリザベス、お前のような者を国中からかき集めることはできたが、やはり古代語の知識や魔導を起こすための式句なるものの構成法は、腹立たしいことにミュンエルン王国が独占している。そこで、だ、エリザベス。お前が直接ミュンエルン王国軍に潜り込み、自ら古代語を学ぶと共に、王国軍魔導部隊に接近して式句の構成法などお前自身が戦で魔導を操れるように技術を盗め」  こうして私は、既にミュンエルン王国に潜り込んでいた者の手引きにより、ミュンエルン王国軍魔導部隊隊長、《氷雨の王子》ロナルドの補佐官としての職を得た。  すべては、悪しき外夷より我がイワチェリーナ帝国が手にするべき豊かさを取り戻すため。来たる聖戦に向け、魔導を我が帝国の力とするため。 「エリザベス、エリザベス!」  微睡の中にあったエリザベスは、セルゲイの乱暴な揺さぶりで目を覚ました。視界がぼやけて滲んでいる。目元を擦ると、生温かい涙が指に絡みついた。 「ここ、は」  真っ暗な夜空が頭上に広がり、灯りもない中ではどこにいるのかもわからない。しかし半袖から覗く素肌を撫でる冷気は、どこか懐かしく、エリザベスは自分がもうイワチェリーナ帝国領に入ったことを悟った。 「ったく、密入国するために積荷に潜んどけとは言ったけど、本気で寝るなんて呑気な奴だ。こんなんでよくスパイなんて務まったよな。生きて帰れたなんて運の良い奴め」  グチグチ言いながら、エリザベスの姿を隠していたレモンやオレンジといった果実をどかしていくセルゲイ。自国内領域に入ったとはいえ、屋外で密入国なんて危ない単語を大声で口にするセルゲイもスパイの回収役としてはどうなのか、とエリザベスはぼんやり考えていた。 「ほら、掴まれ。我が帝国の寒さじゃ、その軽装のまま荷台の上で移動なんて風邪引くからな」  ぬっと伸びてきた青白い腕を掴むと、強引に引き上げられる。 「貴方が私の心配をするなんて珍しい」 「けっ。お前なんかが野垂れ死のうが知ったこっちゃないけど、無事に連れ帰ってこいってのがヴィクトル様からのご命令だからな。ヴィクトル様のためだよ」  心底嫌そうに顔を歪めて、セルゲイはエリザベスを荷台から降ろし、車の助手席に詰め込んだ。エアコンがごおごおと暖風を送る車内は暖かく、エリザベスの冷え切っていた素肌が弛緩していく。  考えてみれば、このエアコンというものを使うのも久しぶりだ。気候が厳しいイワチェリーナ帝国では、富裕層や軍関係施設に限り、空調設備が家屋から車に至るまで普及している。が、魔導があるためなのか温暖な気候からなのか、ミュンエルン王国には国で一番贅を尽くしているであろう王宮にすら、エアコンというものはなかった。  ヴィクトルが言っていたことがある。 「厳しい自然環境と優れた人材により、イワチェリーナ帝国の科学技術は磨き上げられた」と。ミュンエルン王国で過ごし、他の言説はともかく、この言葉だけは祖国についての真実であったとエリザベスは思っている。 「あー、さみさみ」  ボヤきながら、運転席に座り込むセルゲイ。刈り上げられた銀の髪をガリガリと掻き、乱暴にキーを回して車を発進させた。前触れもない動きに、エリザベスの体も揺さぶられるが、ぐっと持ち堪える。その様を見て、つまらなそうにセルゲイは舌打ちした。  その手に乗るものか。と、エリザベスは歯を食い縛る。セルゲイは昔からこうだ。こうやって小さな嫌がらせをして、エリザベスが困る様を嘲笑いたいのだ。  ――ロナルド様やジャック様は、きっとこんなことしないんだろうな。  心臓の裏側がぎゅっと絞られたような、そんな感覚にエリザベスは襲われた。  お二人ともとても、優しい方だった。それに、レベッカや他の魔導部隊の隊員、ミュンエルン王国に滞在していた間関わった人は、明るくて優しくて……。王都も栄えていて、陽気で、悪政に虐げられているだなんて、とても……。  エリザベスははっとして、唇を噛む。  今更なんてことを考えているのだろう。私は偉大なるイワチェリーナ帝国の誉ある一兵。帝国のために、あの国を滅ぼすために、《氷雨の王子》に仕え魔導を学んだのだ。  そう、セルゲイが迎えに来たのも、戦争が始まったからだ。そのドタバタに乗じて、貿易商に扮し国境を越え、ついにエリザベスはイワチェリーナ帝国軍少尉としての本来の姿を取り戻す。そして、エリザベスが潜入中にコツコツと本国に送った知識や、エリザベス自身が帰還し広める手法を持ってして、イワチェリーナ帝国は魔導を我が物として――ミュンエルン王国を打ち滅ぼすだろう。  もう……戻れないのだ。  氷のように冷たいブレスレットをなぞり、エリザベスは窓の外に視線を移す。白く霞んだ景色は風のように飛び去り、暖かなあの国は思い出だけを残して遠ざかっていった。
/21ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加