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 半年後。  短い夏が終わり、イワチェリーナ帝国は長い長い冬の中にあった。帝都は深い雪に覆われ、帝国軍附属学校の中庭に敷き詰められているはずのカラフルなタイルも、その姿を純白の雪化粧に隠されている。  白く靄を吐き出しながら、エリザベスはその柔らかな新雪を踏みしめた。厚手のダウンジャケットから覗く手首にはプラチナのブレスレットが光り、指先には旋風が渦巻いている。 「エリザベス様、エリザベス様ー!」  鈴を転がしたような可憐な声がエリザベスを呼ぶ。旋風を霧散させて、ファーで装飾されたフードを下ろすと、エリザベスの美麗な顔が露わになった。 「あ、また外にいらしたんですね! うわっ、寒ぅい!」  エリザベスを見つけ、駆け寄ってくるのは三等兵のアリサ。まだ齢十五と幼いが、しっかりとした性格で、帝国のためにと日夜魔導の鍛錬に励む勤勉な少女だ。  二つに結った金糸を寒風に巻き上げられ、小さく悲鳴を上げる姿が可愛らしく、エリザベスはふっと口許を緩める。 「? どうしました?」 「いえ、行きましょうか」  重い二重扉を開けて、二人は校舎内に戻る。外気の冷たさから一転、室内はごうごうと稼働する暖房のお陰で快適な暖かさに保たれていた。 「どうしてあんな寒い所にいらっしゃるんですか? 探すこっちの身にもなってください」  冷えた両手を擦り合わせながら、アリサが憤慨する。既視感のある台詞にエリザベスは目を剥く。なるほど、あの時ロナルド様はこんな気持ちだったのか。 「ごめんなさいね、次からはどこに行くか言伝を残していくから」 「そうしてください。……いや、真面目に仕事してください!」 「そうね。それもそうだわ」  またどこかで聞いたような言い回し。曖昧に笑ってエリザベスは濁した。  帝都に戻ったエリザベスは、初めて、生まれて初めて「よくやった」と褒め言葉をもらい、将軍ヴィクトル直下の魔導対策室とその室長の座を与えられた。  激しくなる戦況に備え、少しでも才ある少年少女に魔導を習得させるためだ。ヴィクトルが集めた十人の少年と四人の少女に、自然の摂理を解き、人体の構造を教え、古代語の読み書きを修得させる。これがこの半年間、エリザベスが行っていたことだった。  中央司令部の隣に位置しているが、閉鎖的な環境である学校。そこに引きこもっていると外界の喧騒とは隔離され、戦争のことや国内の不穏な情勢さえも、エリザベスは他人事のように新聞で知るのみだった。でも、それで良かった。  この小さな箱庭で束の間の平穏に浸っていれば、自分が何をしてきたかも、その結果何を引き起こすのかも、考えなくて済む。いや、考えるまでもなく、エリザベスにはわかっていた。ただ、それを認めてしまえば、エリザベスはきっと平静ではいられなくなる。自分自身が信じてきたものを疑い始めてしまう。そんなことをしたところで、もうエリザベスには何も取り返しがつかないというのに。  だから、目を瞑り、耳を塞いだ。  純朴で、エリザベスのことを魔導の師として慕う子らに囲まれて、その子たちをどう育てるかだけに思考を集中させる。 「じゃあ、今日は式句の改良案を考えましょうか」  聖人君子のような笑顔を貼り付けて、エリザベスは教え子らに語りかけた。  それで、良い。 「芳しくないっすね、戦況」  同時期、ミュンエルン王国王宮内南翼。  回ってきた戦時報告書を渋い顔で眺めてから、ジャックがそれをロナルドに渡した。 「ふむ」  戦争が始まってから半年。  直近の大戦である十六年前の戦いは、終結までに四年ほどかかったが、最初からミュンエルン王国側が押す展開だったので実質はイワチェリーナ帝国の降伏待ち。ミュンエルン王国が苦戦したのは、強襲された最初の数ヶ月ほどだったらしい。  しかし、今回は宣戦布告を経ているというのに、未だ一進一退。戦地となっている国境沿いの人里は疎開が済んでいるので、民間人の被害がないことがせめてもの救いだが、長引く全面衝突により戦死者や負傷者は増えていく一方だ。  戦時報告書に並ぶ被害状況。そこには知った名前も載っている。ロナルドの脳の端はズキズキと痛んで、精神を削った。  もう少し早く、あの広範囲魔導を完成できていれば……そしてイワチェリーナ帝国にその魔導を輸出できていれば……。たらればばかりが巡っては消え、戻せない時間に恨みが募る。  無力なものだ。戦争が始まってしまえばもう、俺にできることなどないのだ。  ふう、と床に沈みそうな重いため息をロナルドが漏らすと、ジャックが優しい金の瞳を揺らした。 「大丈夫っすか? 戦地に出ていないとはいえ……いや、出てないからこそしんどいっすよね。あの研究だって、せっかく形になったっていうのに」 「大丈夫だ。戦場にいもしない俺が弱音を吐く資格はないよ」  自身の摩耗した心は無視して、ロナルドは眉間を揉む。 「たいちょ」 「それより、だ。どうやら、前回よりもイワチェリーナ帝国の軍事兵器が高精度になっていることが誤算のようだな。お陰で北部軍の魔導部隊を投入しても、対抗されてしまうということだ」  ロナルドを気遣うような表情を見せるジャックに、ロナルドは静かに首を振る。  士気を高めなければいけない立場のロナルドがこれ以上、後ろ向きな態度は見せられない。部下に精神状態を心配されている姿など、この王宮内で見せてはいけない。  それを重々承知しているジャックは軽く頭を振ったあと、いつもの飄々とした調子を装って返した。 「まー、並の魔導だと優れた科学兵器には負けちまうでしょうからね」  助かるよ、ジャック。その察しの良さ。心中で呟きつつ、ロナルドは首を捻った。 「それにしても、ことごとく魔導が無効化されているな」  報告書を読み込みながら、ロナルドは違和感を覚えた。たとえば筋力強化、たとえば金属の精製といった魔導士一人の兵力を底上げする形の魔導であれば、優れた防具の開発で防ぐこともできる。いや、科学を極めれば肉弾戦に持ち込まれる前に毒ガスを使うといった攻撃もできる。ならば、ジャックが言うような魔導が科学に劣るという考え方もできる。  けれど、炎や稲妻、ロナルド自身と同じく天災といわれるような大規模な自然魔導を駆使する高度な魔導士は、北部軍にも在籍していたはずだ。これらに遭遇して科学で対処するのは、なかなかに至難の技である。  そう、事前にこれらの魔導の存在を知っていて、迎え撃つ準備をしていたのではない限り。  ロナルドは額をかく。嫌な想像で汗がじんわりと滲んでいた。 「なぁ、ジャック。エリザベスは我が軍の魔導士についてどこまで知っていたんだろうな?」 「……え」  エリザベス。その名を聞いて、ジャックは顔を曇らせた。  開戦以来半年、ロナルドとジャックが彼女の話をすることはなかった。業務に忙殺されていて深く考える時間もなければ、心理的余裕もなく、いくら思案したところで答えが出るものでもないからだ。  けれど、ロナルドが彼女を忘れることなど片時もなかった。  上質な生糸のような長い金の髪。色素の薄い肌に強くまっすぐな光を湛えた鳶色の瞳。一見冷たい印象を与える美貌の下には、真面目で素直な心を持っている十八歳の少女。  短期間ではあったが、共に過ごし、魔導を通して心を通わせた――つもりだった。  けれど蓋を開けてみれば、彼女に関する情報は何一つ残っておらず、ロナルドだってエリザベスが何者だったのか答えられもしない。 「さあ。ただ、勤務後に図書館通いするくらいには勉強熱心だったみたいだし、色々知っていてもおかしくない、んじゃないですかね。……まさか、エリーが情報を持ち帰って、ってことか?」  ロナルドはしばし迷ってから、小さく頷く。ジャックは狼狽して「ああ、そう、か」と力なく呟いた。 「じゃあ何か? 俺たちの同期のリッキーやザックさんや……他にもたくさん、たくさんの兵が魔導を無効化されて戦死してったのは、あのエリーが情報を敵国に流したから……ってこと、なのか? そんなのって……」  唇を震わせ、温和な顔を歪めるジャック。立っていられなくなったのか、ロナルドの机に手をつき首を垂れた。 「――はっ。何が素直で真面目、だ。とんだ悪魔じゃないか」 「ジャック、まだそうと決まったわけではない」  ロナルドの言葉に、ジャックのカールした茶髪がゆるゆると左右に振れる。 「そうですね。でももしそうなら、俺はあの女を許せない。エリー……いや、エリザベスのことは確かに好きだったけど、でももうそんなの関係ない。大事な仲間をむざむざ殺されて……くそっ!」  悔しげに拳を打ちつけるジャックに、ロナルドは「そうだよな」と舌の上で同意を転がした。情に熱い友人がそんな裏切りを看過できるわけがない。  それと比べて、自分はどうだろう。  エリザベスに対して怒っている? 俺たちを騙したと憤る気持ちはある?  否。そんな激しい感情は、ロナルドには湧き上がらない。どうしてか、確信してしまっているのだ。エリザベスはそんなことをしない。進んでそんな悪事をするような人間ではない、と。何かどうにもならない事情があって、きっと……。 「いや、憶測はもう十分だ。そろそろ、彼女が本当に関わっているかどうかを見極める時期だな」  ロナルドはこめかみの汗を手の甲で拭い、小さく独りごちた。 「ジャック副隊長、三日ほど前に回復魔導を使用できる者一名の出兵要請が来ていたな」  突然改まった呼びかけに、ジャックは背を伸ばし「は!」と部下の顔に戻った。 「おっしゃる通りです。我が隊の中でアレンを推薦しようかと考えておりました。レベッカに実力は及びませんが、最近頭角を現しており」 「いや、いい。俺が行く」 「承知しました。……って、はぁ!? 隊長自ら!? い、いやだめでしょ、ここの指揮はどうするんで?」 「お前がいるから大丈夫だろう。普段からよっぽど俺より隊員のことを見ている」  そう言いながら、ロナルドは早くも机の引き出しや身の回りの整理を始め出した。 「でも、わざわざ《氷雨の王子》が出るような段階でもないのに。回復魔導は専門じゃないでしょう」 「ああ。だが俺が来て足手纏いということもないだろう。書類だけ回答しといてくれ」  荷物を入れた鞄をバチンと閉め、ロナルドは立ち上がった。  思い立ったら動かずにはいられない。ロナルドのその性質は、理論と実践を繰り返して磨き上げられる魔導士という職業では大いにアドバンテージとなったが、上司という立場になると部下はたまったものではない。  しかし、今回ばかりはジャックもわかっていた。 「確かめに行くんすね、エリザベスが関わっているか」 「そうだ。こんな離れた地で議論を交わしていたところで時間の無駄だ。俺は彼女を軍内に招き入れた者でもあるからな、もし彼女と再び見えたら、その責任は俺自身が取らねばならん」  自身の両手に視線を落とす。プラチナのブレスレットが冷酷に光を跳ね返していた。  ジャックの喉が何か言いたげに上下したが、結局音にはならず、彼は微かに頷いただけだった。
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