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「何故、こんな真似をしたのですか?」  牢の格子を下げ、配給された簡素な夕食――乾パンと根菜のスープを受け渡し、セルゲイは恐る恐る尋ねた。  仕えて以来、否、入隊して以来尊敬してやまない上司にこうして問答すること自体が初めてなのだ。それは、こういった怯えた態度になってしまっても仕方がないだろう。  しかし、誉ある帝国軍将軍が衛兵に扮して、あろうことか結ばれようとしていた和平を白紙にしようとした。国に尽くし続けていたヴィクトルの行動として、セルゲイはどうしても理解できないのだ。  セルゲイが差し入れた乾パンを掴み、無言で食い千切るヴィクトル。  答える気はないのだろう。  直属の部下であるとして、セルゲイが事情聴取に呼ばれた時もそうだった。会談の場でエリザベスに正体を暴露され、直ちに捕縛されたヴィクトルは、ひたすらに黙秘を貫いていた。だからこそ、何か知らないかとセルゲイが呼び出されたわけだが。  こうして看守役を命じられたのも、腹心の部下であれば口を割るとでも思ったのだろう。セルゲイは眉間を揉んだ。エリザベスと共に来たミュンエルン王国の奴らの考えだろうが、ヴィクトル様がそう簡単に腹の裡を見せるわけないだろうが。この方の人間らしい情など、長年仕えてきて見たことなどない。 「…………」  重い沈黙の中、セルゲイは思い付いたことがあった。ヴィクトルの人間らしい部分。愛国主義かつ合理主義の塊のような彼の唯一不可解な部分。 「エリザベス、生きてたんですね」  淡々と響いていた咀嚼音がピタリと止まった。  やはりか。思わず漏れそうになった舌打ちを堪え、セルゲイは苦々しい気持ちを呑み下した。 「ヴィクトル様。聡明なヴィクトル様はご存知かと思いますが、俺はエリザベスが嫌いだったんですよ。十六年前の大戦で武功を上げ、戦神とも称される大将軍であらせられるヴィクトル様の寵愛を受けているにも関わらず、ひ弱で怯え続けるあの女が目障りで仕方なかったのです。だから、エリザベスが無駄な正義感を燃やして出兵し、戦場で弟子共々行方不明になったと聞いた時、清々するかと思ってたんです」  銀の短髪を爪でかくと、ガリガリと地肌に細かな傷が散る。悪癖だと自覚していても、セルゲイには止められない。 「けど実際は、ひたすら動揺していました。で、今日、生意気にも和平について語る姿を見て、いつものようにあいつにイライラして――安堵する自分がいたんですよ。認めたくないですが、長年一緒にいたことであんな奴でも情が移ってたんですね」  ヴィクトルは相変わらず返事をしない。セルゲイの言葉など雑音と相違ないのかもしれない。こうして荒れる胸中を言語化するのも、セルゲイの自己満足に過ぎないかもしれない。  それでもエリザベスの話であれば、何かはヴィクトルの芯に触れるかもしれない。 「おそらく、ヴィクトル様も同じですよね?」  ヴィクトルが部下のことをただの駒としか見做していないことは、痛いほどに理解している。ヴィクトルが興味があったのは、軍やヴィクトルにとって有用かどうか。たとえ任務の過程でセルゲイが負傷しようが、どうなろうが、ヴィクトルは毛のない眉をぴくりとも動かさなかった。  そして、そうは言いながら、エリザベスだけはヴィクトルにとって「ただの」部下ではなかった。 「俺、知ってるんです。ヴィクトル様がエリザベスの出兵を回避する術をギリギリまで考えあぐねてたことも、いざ派遣が決まってしまったあとは、死傷者数が少ない地区に行くように画策していたことも。けれど、そうまでしてエリザベスが赴いた地に、まさか因縁の《氷雨の王子》がいようとは。運命の悪戯、というものでしょうか」  スパイとしてエリザベスが情報を掠め取った張本人。エリザベスが欺き続けたミュンエルン王国一の魔導士。彼からしたらエリザベスは故郷の仇で憎しみそのものに違いなく、だから、セルゲイはエリザベスの生存を絶望視していた。今回の戦を終わらせた人間兵器が、個人的にも恨みのあるエリザベスを見逃すはずがない、と。  なのに、蓋を開けてみれば、エリザベスは生きていた。そして驚くことに、ミュンエルン王国側の人間として、ヴィクトルに引導を渡した。 「ヴィクトル様、彼の国でエリザベスに何があったのでしょうね」 「それは、貴方が知るべきことではないわ、セルゲイ」  眩しい光を伴って、澄んだ声音が降った。  外界から差す橙色の夕陽。その淡い粒子を跳ね返しながらなびく金の髪は、息を呑むほど美しく、セルゲイは束の間声を失くした。その間にも麗しい顔に凄絶な覚悟を漲らせ、エリザベスは地下牢を下っていく。 「……何しに来た」  機械のような声が問う。やはり、な。我に返ってセルゲイは密かに嘆息した。ここに至っても、ヴィクトル様を動かすのは俺ではなくこの女なのだ、と。 「正式に和平条約が調印したので、報告しに来ました。それと――ヴィクトル様に会いに」  ヴィクトルと対峙するエリザベスの横顔を眺め、セルゲイは再び息を呑んだ。  貧相な身なりをした少女。小汚かったあの孤児は、常に怯えを浮かべていた鳶色の瞳をまっすぐと主人に構えていた。まるで、鋭利な刃を向けるように。 「ヴィクトル様、いえ、ヴィクトル。貴方がなんとかして結ばせまいと抗っていた和平条約は調印されました。これによってイワチェリーナ帝国軍は解体。戦争裁判において、貴方を含めた軍執行部は戦犯として処分を科されることになります。しかし、ご安心ください。私たち残存兵がしっかりと、イワチェリーナ帝国や皇帝一族をお守りし、周辺諸国と手を取りさらなる発展を目指しますから」 「お前が? お前如きにそんなことできるわけがないだろう。強き力なしに国を守るなどと絵空事を」  ヴィクトルの無感情な声音は、しかして強大な獣と対峙しているような腹の底から湧き上がる恐怖を呼び起こす。自分に向けられたものではないのに、セルゲイは本能的に固まり、荒い息を吐いた。  それでもエリザベスは怯まない。赤黒く煤けたブレスレットをお守りのように触り、目線を逸さずにヴィクトルに返した。 「貴方こそ、そのしがみついてきた妄想から目を覚ましてください。戦いは憎しみしか生みません。富は奪い合うものではなく、分かち合い増やすことができるもの。そして、貴方が固執する軍事力は、国のためでも皇帝のためでもなく自らの虚栄心のためだということを」 「……! そんなわけ、」 「では何故、和平を妨害しようとしたのですか!? 我が国は敗戦国なのです! 変わらざるを得ない! ここでミュンエルン王国を逆撫でしたところで、国益にならないことは誰にだってわかることでしょう!」 「…………」 「私はこの国に戻ります。ミュンエルン王国から盗んだ魔導と我が国の科学を組み合わせて、不毛の地の改良に励み、民が飢えぬ未来を作ります。そして平和で豊かな国を実現します」  高潔に、そう宣言するエリザベス。 「……変わったな、お前」  セルゲイの心の声は、いつの間にか口から漏れていた。  セルゲイも含め、ヴィクトルに軍人のいろはを叩き込まれていた者は、力こそが全てであると固く信じている。いや、いた。エリザベスのこの青臭い理想は、誰の影響か。  おそらく、共にいたあの《氷雨の王子》、なのだろうな。  エリザベスを書類上は戦死として匿い、こうして祖国まで連れ帰ってきたあの男。スパイであったエリザベスの一番の被害者であるはずなのに、ここまでエリザベスのために行動していることを鑑みるに、魔導部隊長と補佐官以上の何かが彼らにあるのは確かだ。  顔を伏せるヴィクトルからセルゲイに目線を移し、エリザベスはふっと口角を緩めた。 「――っ!」  セルゲイの心臓がびくんと跳ねた。  ああ、これだから。  これだから、エリザベスは嫌いなんだ。  弱いくせに、臆病なくせに、時々とんでもなく美しくなるから。  腕をかざして、顔を背ける。こんな表情、最後に見せてたまるか。 「セルゲイ、ヴィクトルを頼むわね」  踵を返し、エリザベスは背を向けた。 「エリザベス」  その背に投げかけられた声は、いつになく震えていた。  振り返ることのない華奢な背中に、ヴィクトルはそれでも尚語りかけた。 「体に気を付けろ」  エリザベスは何も言わなかった。
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