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「ロナルド様ー! ロナルド様ー!」  ミュンエルン王国王宮。庭園に続く渡り廊下に響き渡る凛とした大きな声に、廊下を行き交う臣下や庭師たちが振り返る。 「あれ、誰だ?」 「ロナルド魔導部隊長のとこの新しい補佐官らしいよ」 「え、また? 何人目だ?」 「今度はいつまで続くことやら」  自身についてヒソヒソ交わされる会話を一顧だにもせず、エリザベスは足早に自らの主を探していた。腕に抱えた大量の書類に目を通してもらわなくては、エリザベスの業務も一切進まない。 「もう、あの人は」  着任してからもう十日過ぎ。連日この調子では、エリザベスの眉間の皺が深くなっても仕方はない。 「よっ、エリー」  そんな憤怒のオーラも気にせず、親しげにエリザベスの肩を叩く武官が一人。 「あら、ジャック様」  ジャックはカールした栗色の髪をかき上げて、「だからー、俺に様付けはいらないって」と気さくに笑った。 「そういうわけにはいきません。上官ですから」 「真面目だね、エリーは。今日も今日とて、我らがボスは逃走中?」 「ええ、部屋に行ったらもぬけの殻でした」 「ごめんね。俺も探してみるよ」 「いえいえ、ジャック様は副隊長の業務でご多忙でしょうし、お手数をおかけするわけにはいきません。これも私に与えられた任務と肝に銘じ、精一杯ロナルド様を探索させていただきます」  軍靴の底を鳴らして、エリザベスは背筋をピッと伸ばす。軍属になってまだ日も浅いのにあまりにも様になっている動作と、まだ齢十八の見目麗しい少女がそんな仕草をしているアンバランスさ故かジャックは笑みを漏らした。 「ほんっと、真面目だねぇ」 「では、これにて」  略式の礼をして駆け出そうとするエリザベスに「あ、待って」とジャックは手首を引いた。 「? 何でしょう?」 「いや、さ、辞めたかったら辞めたいって言っていいんだよ?」  唐突なジャックの問いに、エリザベスの鳶色の瞳が丸くなる。 「そんなこと、毛頭考えたことはございません」  改めて礼をして、駆けて行く濃紺の軍服に包まれた背を見つめ、ジャックは頭を掻いた。 「最長記録、更新、か」  さて。  ジャックと別れたエリザベスは、顎に指を当て思案した。  この王宮は広い。が、構造は明快だ。北翼は主に文官の執務室。中央棟は王族の居住区。そして、南翼は主に武官、エリザベスたち軍属の者たちの執務室だ。  エリザベスの主人であり、同じ軍属であるロナルドは北翼に用はないし、中央棟は原則関係者以外立ち入り禁止。そうなれば必然的に南翼しか可能性は残らないが、そこにいないことは既に確認済みである。  とすれば、残るは広大な庭園か。  渡り廊下から庭園に降り立ち、すうっと息を吸い込めば、鼻梁に刈りたての木々の香りと芳醇な花の匂いが広がる。拳を軽く握り、エリザベスは地面を蹴った。  ああ、気持ちいい。  大陸最南端に位置するミュンエルン王国特有の陽気で爽やかな風がエリザベスの頬をくすぐる。やはり王宮内で抑えて小走りするよりも、こうして屋外で全力で走り抜ける方がいい。  幼い頃から走ることは、誰よりも得意だった。  気持ちを高揚させつつも、エリザベスの瞳は鋭く端々を捉える。身を潜められそうな木陰、壁の裏、他には…… 「見つけました!」  堂々たる幹の先、太い枝に寝そべっていた長身痩躯がエリザベスの声にびくりと体を震わせた。 「ロナルド様! お仕事の時間です!」 「……まだ、昼前だぞ? 早すぎないか?」  オールバックにした黒髪を撫で、その端正な顔を驚愕で染めたロナルドがエリザベスを見下ろす。 「いえ、我々の業務開始時間は午前九時ですので、早すぎるどころか遅いと申し上げて差し支えないかと」 「そういうことじゃないんだが」  指揮でもするようにロナルドが左手を振ると、空中に白銀に煌めく氷が出現し、次第にその大きさと数を増やす。それらが透き通るような氷の板に形を変え、ロナルドの手の動きに合わせて樹上から地面へ続く階段と成った。 「お見事です」 《氷雨の王子》  氷結に係る魔導を得意分野とし、男も見惚れる美麗な容貌も相まって名付けられたロナルドの異名。  本物の王子もいるこの国で、単に容姿が優れたことを示す名詞として適切なのかエリザベスは甚だ疑問に感じるが、それでもこの異名が妙にしっくり来てしまうのは、ロナルドの聞きしに勝る優美な見た目と身に纏う銀に煌めく氷の礫の効果故だろう。  氷の階段を優雅な仕草で降りてから、ロナルドがふっと息を吹けば、その階段は空気中に音もなく霧散する。 「まったく。エリザベスが俺を見つけるスピードが日に日に早くなるから、サボる時間がなくなってきたな」 「寧ろ、サボる時間がある方が異常ではないでしょうか」  ロナルドが高い鼻を鳴らした。 「手厳しいな。そんなこと補佐から言われたのは初めてだよ」 「そうでしょうね」  エリザベスの前任たちは皆、世間で持て囃される《氷雨の王子》とこのサボり癖がひどい上司とのギャップに驚愕し、遅々として進まない書類仕事に苛立ち、数日も経たずに辞めていったらしい。もっとも、二十五と妙齢の色男、しかも国の要職につくエリートへの密かな想いを携え入職したのに、そのエリートは仏頂面で冷徹、さらに仕事もろくにしないとなれば恋心も瞬く間に消え失せてしまった、という理由もあるだろう。  いずれにせよ、辛辣な言葉を吐けるほどには上司と部下としての時間を積み重ねていない上に、元々ロナルドとあわよくば、の感情があった前任たちがエリザベスのような態度を上官に示していたとは思えない。 「さ、早く執務室に戻りましょう」 「おっ、やーっぱり戻ってきた」  ロナルドが自身に貸与された個室の扉を開ければ、ジャックとその部下たちがニヤリと笑って待ち構えていた。  ロナルドは不快げに整った眉を歪める。 「む、何故お前が」 「そりゃあ、隊長に署名してもらいたい書類があったんで」 「いや、そういう意味でなくな、何で俺の部屋に居座っているんだって訊いているんだ」 「さっきエリーに会ったから、隊長が連れ戻されるのもそろそろかなぁって思ったんで、待機してたんですよ〜。さっすが俺、ビンゴっすね」  嬉々とするジャック。ロナルドは大きなため息をつきながら部屋を横切り、エリザベスは楚々とその背後に従った。 「エリーやるねぇ。隊長捕獲ミッション、どんどん早くなってんじゃん」 「恐れ入ります」 「今までのゆるふわ女子な補佐官とは一味違うと思ってたけど、ここまでとはね」  悪かったわね、ゆるふわ女子じゃなくて。ジャックたち粗野な軍人らの物言いに、エリザベスは内心眉を顰めた。エリザベス自身自覚している。色素の薄い金髪や雪のように白い肌、きつく釣り上がった鳶色の瞳、感情を抑えた語り口調は親密さより冷たい印象を人に与える。豊かな家庭で育った子女が醸し出す柔らかな空気は、厳しい環境で生きてきたエリザベスに纏えるはずもなく、体つきだって女性らしいというよりは無骨で筋肉質だ。  でも、だからこそ、ロナルドを捜索し手荒に仕事に引きずり戻すという所業を成しているわけで。もっともエリザベス本人だって、自分の体力がこんな形で役立つなんて、ここで働き始めるまでは思ってもみなかった。 「では、本日の業務を」 「あ、待って待って、エリー。こっちの書類ちょっとしかないから先にやってもいい?」  ロナルドに差し出したエリザベスの手を遮って、ジャックが上から決裁書を被せる。 「ジャック、それでは彼女に失礼だろ」 「……承知しました」 「いいのか?」 「いいも何も、ジャック様も私からすれば上官ですので、命令には逆らえません」  ロナルドは納得していないような表情を見せたが、エリザベスは気持ちを呑み込んで一歩下がる。 「悪いね、エリー。俺ら軍事演習終わりだから、早く休憩入ってシャワー浴びたくて」 「演習終わり? だからか、心なしか臭うのは」 「あーひでぇ! 俺たちの努力の結晶を臭いだなんて! 謝ってください! で、ついでにキンキンに冷えた水を俺たちにください」 「あー、すまんすまん。汗まみれになるほど演習を熱心にこなすような、勤勉な部下たちに囲まれて嬉しいよ」  書類に目を通しておざなりな返事をしながら、ロナルドは左手を振った。指先から白い霜が流れ、机の端に無造作に置かれていたコップに注がれていく。エリザベスが瞬きする間に、コップの内部にとぐろを巻いた白霜は冷水に姿を変えていた。 「人間冷蔵庫あざっす!」 「だーれが人間冷蔵庫だ! ありがたく味わえよ。ほら、エリザベス、君の書類を……エリザベス?」 「あ、すみません」 「いや、別にいいんだが、君が呆けているなんて珍しいな、こいつらはともかく」 「ひでぇな!」  ジャックたちの野次を聞き流し、エリザベスは自らを恥じた。 「申し訳ありません。業務中に考え事に耽るなど」 「魔導、か?」  そう質問するロナルドは、心なしか嬉しそうに見えた。 「ええ、ロナルド様の魔導はやはり素晴らしいです。まるで創作物に出てくる魔法のようで、どんな式句で構成されているのか見当もつきません」  エリザベスの返答に、今度こそ本当にロナルドは歯を見せて喜色を露わにした。 「君は魔導を学ぶために、俺の補佐になったんだものな」
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