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「おお、これが」 「はい、本物のスノードロップです」 「そうか……。いや、美しいな」  白く可憐な花弁を掌で包み、瞳を輝かせ感嘆するロナルドは無邪気で可愛らしい。ふふ、と笑みを漏らして、エリザベスは目を細めた。 「きっとこれから、何度でも見られますよ」 「そうだな。君のお陰で和平が成立して、これまででは考えられないほど人も物も両国間で行き来するようになる」 「そんな、私など。和平の筋道を考えたのは、ロナルド様ではないですか」 「しかし、最後に後押ししてくれたのは君の勇気だ。あのヴィクトルとかいう怪傑が出てきた際には、もう終いかと思ったが……まさか、あの男がアリサが話していた君たちの主だとは」  エリザベスは目を伏せる。冷たく乾いた風に長い髪が攫われ、空を踊った。  正体を隠匿し、和平交渉を静観していたエリザベスは、ヴィクトルが現れた瞬間に血の気が引いていくのを感じた。何故、帝国国軍将軍のあの男が衛兵のフリをして交渉の場に潜り込んでいるのか。しかし長年、あの男の下にいて、一つだけ確かなことがある。ロナルドが提案した軍備縮小をこの男が認めるわけなどない。  力こそ全て。奪うことこそ全て。  そんなヴィクトルの下にいたからこそ、エリザベスもそう信じて疑わなかったのだ。けれど、ミュンエルン王国で穏やかで慈しみに溢れた生活を送り、彼女は知った。互いを敬い深く知り、交友を深めることもできるのだと。この国と手を取れば、イワチェリーナ帝国も他国から奪うだけでなく、自ら栄える術だってあるのだと。  エリザベスはそれを、隣にいる《氷雨の王子》ロナルドに教えてもらったのだ。  この人が平和を実現しようと、密かにイワチェリーナ帝国のための魔導を研究し、和平のために交渉している。なのにここにきて、よりによってあのヴィクトルが立ち塞がるなんて。 「宿命、だったんです、きっと。私の半生を支配していたあの男に立ち向かい、ロナルド様と共に和平を成す一員へと、私がなれるかどうか試されていたような気がするんです」  ロナルドの力になりたい。  そう強く願ったからこそ、エリザベスの中に植え付けられたヴィクトルへの恐怖は立ち消え、彼と向き合うことができた。 「昨日、ヴィクトルの牢に行きました。軍幹部にあたる彼は、今回の罪も併せて重い処分が為されるでしょうから、もう二度と会うこともないかと思いまして」 「そうか」 「すごく……すっきりしました。これで何も気にすることなく、前に進めます。こうして魔導士として皇帝直々に迎えられた以上、残存軍も私を処分などできないはずですし」 「そうだな。君が安全に過ごせるのなら、俺としては言うことはないよ」 「本当に、ありがとうございました。魔導の術を授かり、裏切ったにも関わらず命を救われ、生きる意味を与えていただいた。このご恩は一生忘れません」  ロナルドが息を詰めた。  そう。和平は成り――エリザベスもロナルドも祖国へ帰る。  ロナルドは変わらず、ミュンエルン王国随一の魔導の使い手として、国の発展に尽力する。  エリザベスはイワチェリーナ帝国初めての魔導士として、貧しい土地の農業改革を推し進める。けれど、エリザベスがミュンエルン王国の地に足を踏み入れることは、おそらく二度とない。和平交渉の立役者を処罰できない、とラザフォードは目を瞑ると言っていたが、犯した罪は消えない。  こうして、元々、交わることのなかった人生は再び袂を分たれた。多くの業を抱えた者同士、未来のためにそれぞれの地で生き抜くことになる。 「またすぐ来るさ。ほら、アリサたちも帰さなきゃいけないし……そうだ、ジャックを連れてこないとな。君の望みだか、」 「ロナルド様」  ロナルドらしからぬ冗長な言い回しは、別れをより一層際立たせるようで、エリザベスは無理矢理に遮った。  ロナルドの出立まで時間がない。  この人との一分一秒を大事にしたい。  そう強く思ったから。 「お元気で」  せめて笑顔で、とエリザベスは硬直する筋肉を強引に引き上げた。その意と反して、鳶色の瞳からは涙が溢れ、止まらなかった。 「あれ……これ……」  指で拭うが、エリザベスの頰は次から次に雫が伝う。  どうして。  どうして、この人を前にすると、私はこうも感情の歯止めが効かなくなるのか。 「すみま、せ、」  刹那、寒風に吹かれていたエリザベスの体が温もりに包まれた。  それがロナルドであることを悟ったその時、二人の体はバランスを失い、雪面にボスッと投げ出された。 「ロナルド、様」  それでもロナルドはきつい抱擁を解かず、強い力でエリザベスを懐く。まるで、襲いくる寒さから彼女を守らんばかりに。 「君に伝えていないことがある」  ロナルドの大きな掌で後頭部を抱かれ、エリザベスには表情を窺い知ることはできない。それでも、密着した長身痩躯からはドクドクと熱い血潮が流れ、その緊張が否応なしに伝わってきた。 「君を救った理由。それは偏に、君が大事だからだ」 「ロ、ナルド、」 「君が俺にとってはかけがえのない人で、他を捨て置いても――軍の規律や祖国を裏切ってでも、特別だからだ」 「……どこかで聞いたことのある、言い回しですね」  軽口混じりにエリザベスが微笑むと、瞳から一粒涙が零れた。 「君が好きだ。エリザベス」  まっすぐなその言葉は、エリザベスの心に響き、喜びで体を熱くする。自然と、言葉が空気に舞った。 「私もです、ロナルド様」  驚いたように身を離し、まじまじとエリザベスを見つめるロナルド。  雪面に横たわり、エリザベスもロナルドの顔を見つめ返す。  真冬の夜空のような黒髪。男性なのに繊細で透き通るような肌。均整の取れた彫刻のような鼻。そして――冬の湖面にも似た、深い深い蒼で彩られた瞳。エリザベスを魅了してやまないその瞳に映るのは、笑みを浮かべるエリザベスの顔だった。  どちらともなく、その顔は近付き、吐息がかかるほどに距離を詰め、唇が触れ合った。  どれほどそうしていただろう。 「――ふふっ」 「――ははっ」  エリザベスには永遠のようにも刹那のようにも感じられたその時は、いつぞやと同じく、どちらともなく発された笑い声によって破られ、やがて、 「ふふっふふふふ」 「はっははははは」  二人は稚児のように笑い出した。  遮る強い雨も、氷が舞い踊るドームもない。  それでも、辺りに人は一人もいない。  白い絨毯にも似た雪面に身を横たえたまま、笑い合う二人の男女の姿は、白く可憐なスノードロップだけが優しく見守っていた。
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