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「で、今日も今日とてサボり」  エリザベスがロナルドの補佐菅となり、二十日。  空の執務室を見渡して、エリザベスは零れ落ちそうになるため息をすんでのところで抑えた。  初めて会った時に見せた、あの魔導への情熱。噂で聞いていたような冷血漢には到底見えないと、ロナルドに対しての印象を違えそうになった。けれど、勤務を始めてみれば隙があれば執務室から逃げ出すし、帰ってきても書類仕事は一向に捗らない。  エリザベスが望んでいた魔導の勉強どころか、通常業務すらままならず、日々積もり募るのはロナルドの不真面目な勤務態度への不満だ。  それでもエリザベスに職を辞する考えはない。  私に帰るところなどない。  そう言い聞かせて、エリザベスは自身の軍服をぎゅっと握った。左胸部分、ちょうど心臓の真上を。  ここで仕事をするより他、エリザベスに道はないのだ。どれだけ上官に悩まされ、一日の大半を彼の尻拭いに費やしているのだとしても。  外は曇天。快晴が多いミュンエルン王国には珍しい、分厚い鉛色の雲からは今にも雨粒が溢れそうだ。  まるで自分の鬱屈した心情を窓の外に見るようで、エリザベスは再び落ちそうになるため息を堪え、今日もどこかへいなくなったロナルドを探すために踵を返す。 「でも、部下には慕われてるのよね」  はたと思い返して、エリザベスは呟いた。  彼の失踪癖に困っているのは同様なはずなのに、ジャックを始めとした魔導部隊の隊員たちはロナルドに対し時に親しげに接している。  そもそも、孤独に生きてきたエリザベスにとっては、ロナルドとジャックが交わすような気さくなやり取りも新鮮に映った。  人と人の関係は、エリザベスからすると理解の埒外にある。なら今は、仕事に専念しなければ。激しく頭を振って、思念をふるい落とす。  ポツ、ポツ、と窓を打つ音に振り返ると、ついに雨が降り出して眼下に広がる緑の芝と赤茶のレンガを濡らしていた。 「この天気なら、王宮内にいるはずよね」  一人頷いて、エリザベスは足早に部屋を出ていった。  が、 「見つから、ない」  午前いっぱい王宮内北翼を駆けずり回り、疲労困憊で執務室に戻ったエリザベス。来客用のソファーに力なく崩れ落ちた。 「失礼しまーす、隊長、今度の合同演習……ってあれ、エリーだけ?」 「!」  挨拶もおざなりに入室してきたジャックにそんな体たらくを目撃されてしまい、エリザベスは慌てて直立した。 「申し訳ありません! 勤務中に上官の椅子に腰かけるなどとんだ失礼を」 「いやいや、もう昼休みだし、別にそのソファー俺たちも普通に座るやつだし、そんな恐縮しないでよ」 「し、しかし、」 「いいから。座って」  両肩を強く押されては、座るしかない。エリザベスは渋々腰を下ろした。 「で、隊長は? もしかして、まだ見つかってないの?」 「恐れながら……」 「へー、珍しい。最近は午前中に確保できてたのにね」  そう言いながら、ジャックは会議用の長机を挟んでエリザベスの向かいに位置するソファーに深々と座った。確かにためらいはない。至って普通に、ごく当たり前に座った。 「面目ありません」 「んにゃ、エリーは良くやってるよ、大変でしょあの《氷雨の王子》様の相手は」 「……」  否定もできず、エリザベスは目を泳がせる。その様子を見て、ジャックは苦笑いを浮かべた。 「だよね」  そして、持参していた紙袋からサンドイッチを取り出して、「一つ食べる?」とエリザベスに渡す。食べ物を目の前にすると、自分が疲れているだけでなく空腹なことに突然気が付いて、エリザベスは無意識に唾を飲んだ。 「ほら、遠慮しないで」  上官からこのような施しを受けて失礼にならないものか。エリザベスの逡巡を見抜いてか、ジャックは人の良さそうな垂れ目をさらに細くした。 「こういう好意はもらっとくもんだよ。少なくとも、俺たち魔導部隊はそうやって隊長に言われてきてる」 「ロナルド様に」 「遠い国の言い回しだと、同じ釜の飯、って言うんだそうだ」  自らの掌中にあるサンドイッチを軽く握ると、まだ少し温かかった。 「私は、わかりません」 「うん?」 「ロナルド様は国のために粉骨砕身働くべき要職の方なのに毎日毎日、こんなにいなくなって。けれど、ジャック様も他の方々も怒るでもなく笑って許していらっしゃる。いくら、魔導が優れていてもこれでは富国強兵のためになりません。何故、厳しく律されないのか」 「……ふむ」  唇の端についたマヨネーズを太い親指で拭い、ジャックは軽く頷いた。 「ごもっとも、だね」  ジャックはコップに注いだ水を嚥下して、少し沈黙してから口を開いた。 「そうだよね、俺たちのこの態度もエリーを苦しめる原因だったね。前の子たちみたいにすぐ音ぇ上げないからって、エリーが悩んでないわけじゃないよな。あーごめん。鈍いな俺」 「いえ、そんな。ジャック様に謝っていただく話ではないのですが」 「優しいね、エリーは」  頭を抱えた姿勢のまま、ジャックはにこりと破顔した。人懐こいその表情が煌めいて見えて、エリザベスの脈が一瞬跳ね上がる。 「そんな、ことは……」  今のはなんだったのだろう。馴染みのない感情にエリザベスは動揺しつつも、静かに息を吸い、心中のさざなみを抑える。 「ただ、本当に理解できないのです。ジャック様たちがロナルド様のあのような勤務態度を許容される理由が」 「うーん、そうだな。こればっかりは隊長から話してもらわないことには……」  幸いにもエリザベスの動揺に気づく様子もなく、ジャックはもごもごと咀嚼しながら考え込む。 「俺から言えるのは、隊長は国のことを想ってるよってことかな。サボってるって言われるとそうなんだけど、でもな、うーん……。だめだ、俺頭悪いから上手く言えねぇや!」 「はあ」 「あ、そうだ。庭園は探した? なるべく開けてて屋根がなさそうなところ」 「え、いや」  突然変わった話題に戸惑って、エリザベスは窓の外をちらりと確認した。 「今朝から雨が激しいですし、外には出ていません。え、まさか、そんな場所には」 「俺もまさかとは思うんだけどさ。あの人、雨降るの待ってたし、あの式句なら……ま、ダメ元で探してみてよ」  なんだかうまくはぐらかされてしまったような。  胸中のモヤモヤが消えぬまま、エリザベスは傘を片手に、激しく降り注ぐ雨の下を小走りで駆けていた。  しかも、助言も意味不明だ。  雨を待っていた? わざわざ屋根がなさそうなところ?  嫌がらせのようにも思えるが、発言主はあの人の良さそうなジャックだ。事実、室内にはいなかったわけだし、信じてみるしかない。  それでも濡れるのは嫌だ。  と、顔を顰めたところで、エリザベスははた、と思い当たった。  つい先月までは、雨だろうが寒さだろうが耐え忍ぶしかなくて、それが嫌だの辛いだのぼやくことすらなかった。雨風を凌げる快適な環境など、この仕事に就いて初めて手に入れたものだったのに。 「……私も、贅沢に慣れてしまったものね」  額に当たった雨粒を裾で拭い、エリザベスは苦笑した。すると、 「エリザベス?」  聞き馴染みのある低い声が雨音をかき分け、エリザベスの耳に飛び込んできた。弾かれたように振り返り、エリザベスは我が目を疑った。  降り注ぐ豪雨の中、ロナルドが天を仰ぐかのように両手を真上に挙げている。が、驚くべきは、ロナルドを中心にして半径一メートルほどだろうか、ある一定範囲に降り注いだ雨粒が――白銀に煌めく氷の欠片へと瞬時に変化し、柔らかくロナルドの周囲を漂っていたことだ。 「え……これって……」  幻想的な光景にエリザベスは声を失くし、ただ立ち尽くすばかりだった。そんな部下の様子を見て、ロナルドは満足げに口角を上げる。 「すごいだろう! ずっと温めていた式句なんだがな、空気中の水分から熱を奪い氷結させる左手の基本式句はそのままに、右手の式句は効果範囲の広範化と触れる雨粒への無差別かつ半永久的な効果を持続させるんだ! この魔導の優れた点はな、俺がこの式句を展開させ続ける限り、奪った熱の放出と周囲の乾燥も並行してしまうが、今日のように外気が寒く雨が降っていることで湿度が百パーセントの状態であれば、その俺の魔導による環境変化が自然の摂理の前ではゼロに戻ってしまう……補完されてしまうところなんだ。だからこの程度、俺の体を覆う程度であればそれこそ半永久的に使用できてしまうこと、で、」  熱に浮かされたように話していたはずのロナルドの体がぐらりと揺れる。反射的にエリザベスは傘を放り出して飛び出し、氷の雨の中に今まさに倒れ込みそうだった上官の体を抱き留めた。 「――っ」  いや、抱き留めきれはしない。少しばかり鍛えられているとはいえ、エリザベスの力は標準的な女性の範疇。細身ではあるが上背があり、かつ男性であるロナルドを支えるのは無理があり、どう踏ん張ってみても、エリザベスもロナルドと共にずるずると体を地に伏せていくより他なかった。  幸運だったのは、ロナルドの使用していた式句の効果により、地面に降り積もった氷は柔らかな雪となっていたことだ。ぽすん、と間の抜けた音を立てて、ロナルドが、そして数秒遅れてエリザベスが真っ白な新雪にその身を横たえた。 「……」 「……」  互いに事態が飲み込めず、手を伸ばせば触れられそうなほど近くにある顔を見つめ合う。  これほど間近にロナルドの顔を見るのは初めてだ。  真冬の夜空のような黒髪。男性なのに繊細で透き通るような肌。均整の取れた彫刻のような鼻。もし神という存在がいるのだとしたら、きっと彼は、神が時間をかけて生み出したであろう一級品で自信作だろう。どの部位を取っても文句の付けようがない美麗さだ。  しかし、なんといっても瞳だ。深い深い蒼で彩られた瞳は、平時は揺るぎない湖面のように冷たく見えていたが、近くによると雪面を反射した光が踊り、エリザベスを魅了する。もっと見ていたい。この瞳の奥に何が映るのか。もっと知りたい。そんな気持ちが湧いて止まらない。  どれほどそうしていただろう。 「――ふふっ」 「――ははっ」  エリザベスには永遠のようにも刹那のようにも、感じられたその時は、どちらともなく発された笑い声によって破られ、やがて、 「ふふっふふふふ」 「はっははははは」  二人は稚児のように笑い出した。  何がそんなに可笑しいのか説明もつかないが、一度飛び出してしまえば、もう止めることはできなかった。  強く降りしきる雨の中、突如現れた氷が舞い踊るドーム。その中では、白い絨毯にも似た雪面に身を横たえたまま、笑い合う二人の男女。  その摩訶不思議な光景は、強く地面を打つ雨のカーテンによって音も景色も遮られて、誰にも見られることはなかった。
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