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 ひとしきり笑い合って、妙に気恥ずかしくなって。エリザベスとロナルドは、口数も少なく執務室に戻った。  無人の室内はザアザアとくぐもる雨音だけが窓越しに響くほかに余計な音もなく、エリザベスは穏やかな気持ちでコーヒーを注いでいた。 「どうぞ」  淹れたてのコーヒーを厚手のブランケットに全身を包まれた上官に手渡す。かく言うエリザベスも、同じブランケットを肩にかけていた。  季節は初夏。薄手の長袖で出歩けるほどの外気温にこの装いはちぐはぐだが、先ほどまで局所的な雪景色に埋もれていたロナルドとエリザベスは、これでも足りないほどには体の芯が冷え切っていた。  それでも、エリザベスの体の深い場所が温かく感じるのは、記憶にある限り初めて、誰かと心の底から笑い合ったからだろうか。  自然と上がりそうになる口角をどうにか抑え、エリザベスはすっかり乾いた髪を耳にかけた。 「ロナルド様、体調はいかがですか?」 「う、ん」  緩慢な動作でコーヒーを啜り、一息ついてからロナルドはしゃがれた声で返した。 「力は入るようになってきた。不甲斐ないな。自らの体力の限界もわからずに魔導を使用し続けていたなど」 「いえ。でも、知りませんでした。魔導を使用することがそんなに体を酷使することだったとは」  エリザベスは長い睫毛を伏せる。  ロナルド曰く、魔導は自然の摂理を理解し、自然と対話することができる古代語で構築された式句により、人智を超えた現象を可能とするもの。ただしそれは、自然法則の埒外にあるものではないため、それ相応の代価が必要なのだ。 「本来、自然と対話をすることそれ自体がおそろしく体力を消費する。俺は長年の研究によって最適化された式句を用いることで、ある程度の氷を生み出し様々な用途で使役する程度なら息切れすらしなくなっていたが……だからこそ、広範囲の雨粒に対して魔導を用いた際の体力の消耗を見落としていた。俺としたことが……」  相変わらず、魔導のことだけは饒舌なのね。すっかり額に落ち切った黒髪をくしゃりと握り、悔しそうなロナルドを見つめてエリザベスはふっと息を漏らした。  普段は魔導部隊隊長という立場相応に威厳を保っていても、こと魔導となると、少年のように目を輝かせ口数も多くなる。二度目にして憎めないその様相は、ロナルドに対しての不信感が募っていたエリザベスの心を軟化させるのに十分だった。 「なら、私の濡れた髪や衣服を乾かすなど、さらなる体力の酷使はおやめになれば良かったのでは」 「何を言う! 体を冷やしたままでは風邪を引いてしまう……ッケホッ……」 「ほら、ご無理なさらないでください」  咳き込んだロナルドの背をさすると、途端にロナルドは頬を赤く染めて身を捩った。 「? いかがしました?」 「っいや、その、大事ない。あーその、君はもう寒くないか?」  不審なロナルドの様子に得心はいかないが、気にすることでもないだろう。軍靴の底を鳴らして、エリザベスは背筋を伸ばす。 「はい、お陰さまでもう万全です。ご配慮いただき恐れ入ります」 「ならいい」  鷹揚に頷いて、ロナルドはまたコーヒーを一口飲む。脇に控えたまま、エリザベスはふと疑問を口にしたくなった。 「ロナルド様」 「なんだ」 「いつも執務室からいなくなられていたのは、魔導の研究をしていたから、なのですか?」  ロナルドの体がびくりと震える。やはり聞いてはいけなかったか。謝るべきかとエリザベスが悩んだ矢先、「ここまで見られといて、答えないわけにはいかないか」とロナルドが重い口を開いた。 「ああ。室内で書類相手に仕事するより、研究を進めたかったんだ。実験するなら、自然豊かな庭園の方が何かと都合がいいからな」 「そうだったんですか」  なるほど。であれば、昼時にジャックが言っていたようにこれも国のため、というのは理解できる。できるが、 「なら何故、きちんと我々に理由を示して行かないのですか? 毎日どれほど貴方を探すという業務に時間を割いているかご存知ですか? それに、魔導の研究という魔導部隊隊長として真っ当な業務内容であれば、堂々と内外に宣言して行えばいいじゃないですか。そうしておけば軍内で『仕事もせずフラフラしている』などと汚名を着せられずに済むものを」 「え、エリザベス?」  目を丸くするロナルドを見て、エリザベスはハッと口に手をやる。やってしまった。積もり積もった鬱憤をこんな形で晴らしてしまうなんて。 「し、失礼しました」 「いや、君らしいな。確かにそうだ。毎日探す君の苦労も考えず、勝手した。明日からは場所を君だけには教えておくよ」  ふっと眉を下げるロナルドの顔は、微笑んでいるようにも見えた。 「ただ、言いたい奴らには言わせておけ。俺は、俺が信頼する部下にわかってもらえればそれでいい」 「信頼する、部下」  舌で転がしたその単語は、むずかゆくエリザベスの背を撫でた。  あまり人心を解しないエリザベスでも、ロナルドが文脈の中でエリザベスのことを信頼していると、そう伝えてくれたことは読み取れたのだから。  これまで生きてきた中で、誰かに信頼されるなどエリザベスにはあり得ないことだった。 「――身に余る光栄です」  エリザベスが小さく呟くと、ロナルドは照れ臭げに髪をかき上げた。 「君が調製してくれる書類はすべて読みやすくわかりやすい。俺を見つける推察力や身体能力も高い。すぐ辞めなかった根性も含めて、君が補佐として有能で代え難い人物だと言うのは、紛れもない事実だ」  返す言葉も見つからず、エリザベスはきゅっと身を縮めた。こうして誰かに手放しに褒められることなど、想像したこともなかった。 「あの恐縮ついでに、一つご提案させていただいてもよろしいでしょうか?」 「ん? なんだ?」 「私もロナルド様のサボ――いえ、魔導の研究にお付き合いさせていただいてはだめでしょうか?」 「今、君、サボりって言って……いや、お付き合いってどういうことだ?」  失言を聞き逃してもらえることに安堵しつつ、エリザベスは言葉を継いだ。 「先ほど、私には居場所をご教授いただけるとのお言葉でしたので、それならいっそ、同行させていただけたらと思いまして。ロナルド様の魔導や構想されている式句について間近で拝見できたら、勉強の参考にもなるかと」 「ああ、確かにエリザベスは魔導が学びたいと言っていたが……もう勉強もしているのか?」 「はい。独学ではありますが、業務終了後に軍立図書館で魔導の本を何冊か読んだり、自分でも式句を構築するなどしております」  そう言いながら、エリザベスは胸元のポケットからペンを取り出して、手頃な紙にサラサラと短い古代語を書く。 「実際に見ていただいた方が早いですよね」  書き終えた式句を指でなぞり、魔導の入門書に書かれていたように脳内で反芻する。大事なのは具体的なイメージ。右手の先にある空気が動くように―― 「!」  ヒュンッと鋭い音を立てて、旋風がエリザベスの指を掠めた。  風の魔導。空気を利用する魔導の中では、空気の構成物質ではなく空気それ自体に式句を働きかけるので、入門中の入門、らしい。エリザベスが読んだものの本によればだが。  エリザベスが使える唯一の魔導だった。 「……驚いたな。もう使えるのか」 「他にも入門魔導を試してはみたのですが、金属や有機物に働きかける魔導は上手く作用しませんでした」 「いや、それでもすごい。魔導自体を理解したとて、使えるか否かは五分五分だからな。こればかりは才能だ。そうか、ならあるいは……」  ロナルドは鋭い顎をさすりながらしばし考え込み「よし!」と手を叩いた。 「いいだろう! ただし、書類仕事の補佐であるという雇用条件は変わらないからな。そちらを片付けてからなら、俺とサボ――魔導の研究をすることを認めよう」 「書類を片付けて、というのはロナルド様も同じでは……」 「ん? 何か言ったか?」 「いえ」  エリザベスのぼやきは幸い拾われず、エリザベスはぴっと背を伸ばした。 「委細承知いたしました」
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