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 眩しい陽光が緑の芝をキラキラと跳ね回る。珍しかった長雨も止んで、またミュンエルン王国らしいカラッとした暑さが戻ってきた。 「ここは水分の凝固を示す古代語だな。つまり、」 「氷ってことですか?」 「そう、正解だ」  ロナルドによる魔導の講習は端的で、エリザベスの魔導の知識は独学の頃よりも飛躍的に深まっていった。そのことにエリザベスが礼を言えば「いや、エリザベスの飲み込みの早さあってこそだ」と露出した額をかきながら返されたが。  一方でロナルドの研究はいまだ、エリザベスには理解できない事象も多く、今もぶつぶつ呟きながら芝の草一つ一つに水滴を出現させるという離れ業を見せつけていた。 「仕組みがまったくわかりません」  エリザベスが目を白黒すれば、ロナルドはいたずら好きな子供のような笑みを端正な顔に浮かべた。 「当然。基本式句に少し工夫を加えたんだ。その工夫はまぁ、マル秘ってやつだな」  そう言って左腕の袖を捲って、手首に巻かれた白金に輝くブレスレットをエリザベスに掲げた。 「君も得意な魔導分野がはっきりしてきたら、基本式句はこうして携帯するといい。これを俺たち魔導士は、魔導具と呼んでいる」 「そのブレスレットに式句が刻まれてるのですか!?」  エリザベスは、かねがね疑問に思っていた。ロナルドはそれこそ魔法のように、いつどこでも氷を手元に浮かべていたが、その魔導を使用するための式句はどこにあるのかと。おしゃれで付けているのかと思っていた装飾品がまさかそうだったとは。 「プラチナ製のこのブレスレットの内側には、氷を出現させて左手の動きで操るという式句を刻んでいるんだ。まあ、素材を正確に言えば、プラチナにその他数種類の金属を合成しているから純粋なプラチナではない。合成配分を秘匿することで、俺だけが式句を書き換えやすく、他の者は傷つけることすら難しくするためにな」 「ロナルド様だけ、ですか。ではこの魔導具……は、既製品や軍の支給品ではないのですね」 「そうだ。魔導士にとって式句の構成は自身の研究成果そのもの。勝手にいじられないように独自の魔導具を使用するのも常識だな」  エリザベスは眩いブレスレットに目を細める。これがミュンエルン王国の誇る《氷雨の王子》の氷魔導、叡智の結晶か。疼く好奇心は抑えようもなく、生温かい唾を飲み下す。 「そんな目をするな」 「……え?」 「時が来れば、少しずつ教えるよ。エリザベスはどうやら風の魔導に長けているようだから、俺の式句で役立つこともあるだろうし」 「! いいん、ですか? ロナルド様の魔導式句ともなれば、国家機密に値するでしょうに」  驚くエリザベスにロナルドが真剣な眼差しを向けた。深い蒼の瞳に一縷輝く光を乗せて、ロナルドは続ける。 「ああ、本当は良くないだろうが君なら、」  チリンチリン  控えめな鈴の音がロナルドの重々しい言葉を遮った。  音の主を探せば、エリザベスの軍服から取り出した懐中時計がこのひと時の終わりを告げていた。 「ロナルド様、申し訳ありません。ジャック様の演習報告書を受け取りに行く時刻になりました。名残惜しいですが」 「……そうだな」  つい、と視線を外して、ロナルドが首を左右に振る。その挙動の奇妙な遅さに疲労とどこか安堵を感じ取って、エリザベスは困惑した。一体ロナルドは、そこまで熱を込めて何を言おうとしていたのか。そして言わずに済んだことに何故、胸を撫で下ろしているのか。  しかし、問うても本当のことは言わずはぐらかされるだけだろう。  一礼だけして立ち上がり、まだ水滴が踊る芝をエリザベスは踏みしめて行く。人心に疎いエリザベスがあれこれ心の裡を推察したところで、時間の無駄だ。ならば、今目の前にある職務をまっとうしよう。 「それではこちらで承ります。お願いした時間までにきちんと仕上げていただき、ありがとうございました」  王宮内魔導部隊詰所にて調製された演習報告書をジャックから受け取り、エリザベスは小さく頭を下げた。 「いやいや、昨日の報告書を今朝まで待ってもらえて、逆に俺の方が助かったよ。前回までは演習終わりのクッタクタの状態で報告書やんなきゃで、もー最悪だったんだから」 「そうだったんですか」 「でもよく考えてみりゃ、うちの隊長がすぐ目通してくれるわけないんだから、エリーが言うみたいに次の日でもいいんだよな。しかもエリーが校正して隊長を急かしてくれんなら、その方が早く決裁も回るしな。やー、ありがたい!」  手放しでエリザベスを褒めちぎり、ニコニコしているジャックを見ていると、当のエリザベスも笑まずにはいられない。思わずふふっと微笑むと、「あ! 今、エリー笑ったでしょ!」とジャックも頬の笑い皺をより深めた。 「いいことだね。エリーは元々可愛いんだから、笑ってる方が絶対似合うって」 「そんな。お世辞でも嬉しいです」 「っあー。本音、なんだけどな」 「…………え?」  ジャックは笑みを消し、金の瞳に真剣な光を宿した。突然の変化にエリザベスは戸惑い、首を傾げる。 「ジャック、様?」 「初めて会った時から、エリーのこと可愛いって思ってた。話すうちに、素直で真面目なところもいいなって思うようになった」  そう語る口調は、いつもの飄々としたジャックとは別人のように一言一言が重く、揺るぎない。エリザベスが圧倒されていると、ジャックは言葉を切り、喉仏を上下させた。 「俺は、エリーのことをもっと知りたい。俺と、恋人になってくれませんか?」  エリザベスは鋭く息を呑んだ。ジャックは緊張しているのか、柔和な声が微かに震え、顔は強張っている。  ただ、どうしてだろう。  普段見慣れたはずのジャックなのに、緩くカールがかかった茶色の髪も、優しげな垂れ目が目立つ犬を彷彿とさせるような顔も、鍛え上げられた肉体も。目が離せないほどに魅惑的に見えてくるのは。 「――っ」  声も出せず、立ち尽くすエリザベス。  こんな時にどういう顔をして、どういうことを言えばいいのか、何も経験がない彼女には全く見当もつかなかった。 「あ、その……返事は今度でいいから」  ハッと我に返り、ジャックははにかんで頭をかいた。エリザベスもようやく動けるようになり、こくこくと首を縦に振る。 「じゃ、じゃあ、俺は行くわ」  ギクシャクした動きで扉を開けて、ジャックは詰所から立ち去って行く。  肩幅の広い後ろ姿が完全に見えなくなった途端、エリザベスは膝から崩れ落ちた。  ――え?  吐息が荒く熱い。エリザベスの体中をドクドクと血が暴れ回り、目がチカチカとした。  今の……今のって…… 「告白されてたね!!」  テンションの高い声がきーんとエリザベスの頭を貫く。と、同時に、エリザベスは肩を力強く抱き寄せられた。 「副隊長が貴方に気があるのはなんとなーく察してたけど、こんなに早く勝負に出るとはねぇ。副隊長ったら見かけ通り直球なんだから〜。で、エリーはどうするの?」 「えっと……」  エリザベスに楽しそうに尋ねているのは、魔導部隊隊員紅一点のレベッカだ。南部特有の褐色の肌に癖の強い黒髪を三つ編みでまとめている彼女は、ロナルドとジャックの部下であり、エリザベスも無論面識はある。だが、面識がある、止まりであって、ここまで話しかけられたのも初めてでエリザベスは面食らって口をパクパクさせるしかなかった。  そもそも、こんなにも間近に迫られるまでレベッカの存在に気付かなかったなんて。ここが戦場なら命を取られていたところだ。  自分の不甲斐なさと、それほどジャックの告白に混乱している事実に、エリザベスはますます動揺した。 「って驚くよねぇ、そりゃ。エリーは副隊長の気持ち全っ然気付いてなさそうだったもんね」 「え、ええ、まぁ」 「ね、このあと昼休憩よね? 予定ある? 話したいんだけど」 「予定は、ないですけど」 「よし、じゃあ決まり! 一緒にお昼食べよ! 食堂でいい?」 「あ、の……なんでそこまで私に関わりたがるんですか?」  グイグイ話を進めるレベッカに、エリザベスはようやく疑問を呈することができた。  浅黒い顔をキョトンとした表情に染めてから、「あーそうよね!」とレベッカは白い歯を剥き出してニカっと笑う。 「このタイミングで話しかけられたら、色恋沙汰に面白半分で首突っ込んできたって嫌な気持ちになるよね、ごめんごめん。そりゃ、面白半分てのは否定できないけど、私さ、ずっとエリーと話したかったんだよね」 「私と? なんで?」 「だってさー、歳も同じ十八歳で軍内では珍しい女子! しかも美人! そりゃあ話したいよー、友達になりたかったよー。でもきっかけもなくてさー」  エリザベスは瞠目した。歳が一緒であること、容姿が優れていること。それらが人と親しくしたい理由になるものなのか。 「友、達……」  初めての響きは、上手く飲み込めずに、エリザベスの口内でふにゃふにゃと滑る。 「そ、遅くなっちゃったけどさ、良かったら友達にならない? 職場恋愛するかもなのに相談できる相手がいないってのも辛いでしょ? 私のこと頼っちゃってよ、エリー」  弓形に光る黒い瞳は、欠片も悪意はなく直視するには眩しいくらい。  ――どうして。  声には出さず、エリザベスは自問した。  ――どうして、ここの人たちは、こんなにもまっすぐに私と友好を結ぼうとしてくれるのだろう。私、なんかに。  エリザベスが今までいた場所にそんな空気はなかった。殺伐として、恋だの友達だの、そんなものは。 「エリー?」 「あ、えと、すみません」 「嫌、だった?」 「そんなことは!」  エリザベスが慌てて立ち上がると、レベッカはぽかんとエリザベスを見つめてからぷっと吹き出した。 「そっか。なら良かった。さ、食堂行こ! お腹すいちゃった」  無垢な温かさに包まれて、エリザベスは手を引かれていった。
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