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 レベッカが重傷を負った魔導士に代わり、国境線の戦地に赴くことになったのは、この次の日のことだった。突然の辞令のため、挨拶もできずに彼女は旅立った。 「……」  いつもは明るい魔導部隊の詰所にも重苦しい空気が立ち込める。 「エリー、大丈夫?」  不在にしているロナルドに代わり、副隊長としてレベッカの異動の旨を伝えたジャックは、ずっと顔色の悪いエリザベスにそう声を掛けた。 「レベッカと仲良くしてたし、心配だよね。でも、任務は救護だから後方支援だし、きっと」  こういう時、口にしてしまうと叶わないような気がする。曖昧に濁した語尾にそんな願いを感じ取って、エリザベスも「そうですよね」と同意した。 「レベッカなら、大丈夫」 「そうそう。あのレベッカだからさ、ケロッと笑って戻ってくるよ。俺らはいつも通り、粛々と業務をこなそう!」  空気を変えるように、ジャックがパンっと手を叩けば、それもそうだ、と隊員たちにも活気が生まれ始める。各々、持ち場へ動き始める中、「エリー」とジャックは再びエリザベスの肩を叩いた。 「今、ちょっと話せる?」 「ロナルド様の所に伺うので、道すがらであれば」 「全然いいよ。俺も隊長に会っときたかったし。あ、書類持つよ」  エリザベスが両腕に抱えていた書類の束をひょいと片手で持ち去り、もう片方の手で扉を開けると、ジャックはエリザベスと並んで廊下を歩き始めた。 「今日はどこ行くの?」 「庭園です」 「隊長、今はことさら研究熱心だろうしなぁ。もうほんとに開戦秒読みだから」 「そうですね」 「……エリー」 「わっ!!」  ぬっと眼前に現れるジャックの顔。エリザベスは不覚にも大声をあげてしまった。 「な、なんですか?」 「やっぱさ、変だよね? ずっと顔色悪くてなんだか」  察しが良いんですね。とは言えず、エリザベスは俯く。 「まあ、このピリピリした空気はやだよね。うん、わかるよ」 「……」 「けど、エリーは何かそれ以上に背負い込んでそうというか。話してくれないかな。エリーの力になりたいんだよ」  誠実な光を帯びて、ジャックの金の目が煌めく。その真っ直ぐな輝きは言葉を失くすほど綺麗で、心に膿むように染みた。  この人にすべてを曝け出せたら、どんなに良いだろう。 「……考え過ぎじゃ、ないですか?」  無理矢理に引き上げた口角は、ヒリヒリと痛みを伴った。 「何にもないです。多分、空気にあてられてるだけかと」 「エリー」 「あ、それより聞きたかったんですが、最近街中に仮面を付けてる人が多いですよね? あれって何なんですか?」  これ以上の追及には耐えられないと、エリザベスは廊下の窓に駆け寄り、市街を見下ろす。三階の高さから見渡す街並みは、軍内部の不穏な空気とは異なりいつもと変わらぬ平和なものだ。ところどころ、エリザベスが尋ねた仮面を付けた人々がいること以外は。  エリザベスの不自然な話題の転換に眉を顰めたが、ジャックは諦めたように首を振った。 「あれ、北部出身のエリーは知らない? 北部の州都付近での伝統的な祭り――カーニバルの装束だよ。ここ数年は王都でも流行っててね、夜になるとナイトマーケットが設置されて、皆仮面を付けて繰り出して、朝になるまで広場で踊るんだよ」 「知りませんでした。私の村は本当に北の果ての田舎だったので。何故、仮面を?」 「んー、一説によれば、王や貴族、平民と身分に関係なくカーニバルを楽しむためだとか。ほら、仮面をしてれば有名人でも正体を隠せるだろ」 「へぇ。楽しいのかしら」  エリザベスは頰に手を当て、何気なく呟いた。まず祭り、というものに行ったことがないから、どういうものかも想像がつかない。 「楽しいよ。そうだ、良かったら一緒に行かない?」 「え?」  何気ない風を装っているが、ジャックの茶色の髪から覗く耳は赤く染まっている。 「こんな時にですか?」 「こんな時、だからこそだよ。エリーと思い出を作りたいな」  いつも通りに朗らかな笑顔。その裏にあるであろう熱い勇気にエリザベスの心は揺さぶられた。 「――はい」 「やった! じゃあ、今日の退勤後にエリーの宿舎に迎え行くから、待っててね! おっと」  飛び上がらんばかりに喜んだあまり、ジャックは抱えていた書類をバサバサバサと腕から取り落とした。 「わっ」 「大丈夫ですか?」  もう庭園に出ていたので書類が風に攫われ、宙に浮遊する。エリザベスもジャックも慌ててかき集めようとした。  それでも一枚の紙が風に巻き上げられ、エリザベスの手を擦り抜けて上空に舞い上がった。瞬間、二人の頭上を氷の屋根が覆う。 「まったく。何をしてるんだ、ジャック」  エリザベスが想像していた通りの声が、呆れまじりに降ってきた。  透明な天井に跳ね返された紙はヒラヒラと緩やかな速度で降下し、ロナルドの手に収まる。同じようにして空中で掴んだ数枚の資料を片手に、彼は高い鼻から息を吐いた。 「何やら浮かれていたようだが、それで大事な書類を紛失しかけるとは。感心しないな」 「いやー申し訳ないっす。エリーとカーニバル行くことになって嬉しくって」 「カーニバル? エリザベスと?」  整った眉をぴくりと吊り上げるロナルド。どうしてかエリザベスはどきりとして、彼の顔を直視することができなかった。 「そう。隊長……いや、ロナルドには話しておこうと思ってたんだけど、俺、エリーのこと好きだからさ」  職名と敬語の外れたジャックの口調は、魔導高等学校時代からの友人という関係性で話をしたいという現れなのだろう。しかし、 「――そうか。部下同士のプライベートは俺の管轄ではないが」  そう答えるロナルドは、魔導部隊隊長としての一線を崩す意思は微塵もなかった。 「あの、ロナルド様」 「……」 「ロナルド様?」  ジャックと別れて以後、ロナルドは明らかに不機嫌だった。元々口数が多い方ではないが、今日はろくに喋りもしない。手元に氷の礫を出しては霧散させ。そんなことばかりを繰り返している。 「……」  ロナルドに気付かれないように小さく嘆息した。どうしたものか。エリザベスも研究途中である魔導で旋風を手の上で生み出しながら、考えあぐねる。エリザベスが謝るべきことではない。けれど、この雰囲気はどうにもいたたまれないし、 「あいつが好きなのか?」 「えっ!?」  突拍子もないロナルドの問いにエリザベスの声が裏返った。  途端、彼女の両掌を渦巻いていた旋風が爆散する。皮膚を掠めた鋭利な風刃にさっくりと切り傷を付けられ、エリザベスは痛みに顔を顰めた。 「おい、大事ないか?」  ロナルドが左手を振って、丸い血が滲み始めたエリザベスの掌の上にスノードロップを模した氷の花を咲かせる。と、共に、じんわりとした温かさが傷口を包み癒していった。 「あ、りがとう、ございます」 「いや、俺のせいでもあるからな」  困ったようにオールバックにした額をかくロナルドの癖は、照れ隠しであることをエリザベスは知っていた。そう、優しいのだ、この人は。不器用なだけで。  舞う氷の花のお陰で涼やかな風を頰に受けて、エリザベスの不安だった心は凪いでいく。 「どうやって切り出すかを悩んでいたから、無言だったんですか? てっきり、機嫌が悪いのかと思ってました」 「む。それ、は……。仕方ないだろう。ジャックは友人でもあるとはいえ、人の色恋に立ち入って良いものか、それは悩むだろう?」 「レベッカは躊躇いもなく踏み込んできますよ?」 「彼女は特殊だ」  ロナルドがそう言えば、二人は顔を見合わせて小さく笑い合う。 「ジャック様のことが好きかはわかりません。そもそも私は、所謂男女の恋愛というものの経験がありませんし、そういったものにうつつを抜かせる環境にもありませんでした」 「そうか。いや、そうだろうな」 「ロナルド様は経験がおありですか? 女性人気は高いと伺っていますし」 「俺か? まあ、人並みには、うん」  右手を口元に当て、言葉を濁すロナルド。それでもエリザベスは質問を重ねる。 「好きというのはどういうことでしょう? また、好き同士であれば交際関係を結ぶそうですが、その関係に意味はあるのでしょうか?」 「そういうのはレベッカに聞いてくれ……って今いないんだよな。そうだなぁ」  薄い瞼を閉じて悩んだ末に、ロナルドはこう答えを絞り出した。 「好きっていうのはな、相手が大事でかけがえがないと思うことだと、俺は思う。こと恋愛における好きが厄介なのは、こちらが一方的にそう想うだけでは飽き足らず、相手にとっても自分を大事だとかけがえがないと思って欲しいと望むところだな。だから、その好き同士が成就したら、交際関係を公表することで、自他共に相手が一番大事な人なのだと主張するわけだな。俺の女に手を出すな、とな」 「そんな、利己的な」 「恋愛とは他者を愛するように見えて、自己中心的なものだよ。他を捨てて、自分とその相手を特別扱いするものなのだから」  哲学のような調子でロナルドはかく語る。 「だから、ジャックを好きであると、交際関係になるというのであれば、君は他の人を捨て置くことになる」 「捨て置く……」  その単語にエリザベスの心臓がチクチクと痛む。特別。エリザベスにとって、特別な人。それは、果たして。 「とまぁ理屈ぽく言ったが、そんなに重いものではないさ。ジャックが良い奴なのは俺も知っている。彼ならエリザベスのことを大事にするだろう」  考え込んでしまったエリザベスの気持ちを軽くするように、ロナルドはふっと表情を緩ませ、右手をエリザベスの頭に置こうとして――すんでのところで止めた。  エリザベスが怪訝な表情をする前にその中途半端な手を引っ込めて、ロナルドは軽く咳払いをした。 「あー、でもそうすると、俺が君に個人的に贈り物するのは嫌な顔されそうだな。しかし物に罪はないからな」  白々しく言ってから、ロナルドは右の腕に嵌めていたブレスレットを左手で外し、エリザベスに差し出した。瞬間、エリザベスの掌に咲いていたスノードロップは空気に溶け、すっかり傷の消えた手でエリザベスは光輝くブレスレットを受け取る。 「これは……?」 「君が使用する風の魔導の基本式句を刻んだ魔導具だ。エリザベス自身で作成した方が良いかとも思ったが、開戦まで猶予もないとなれば、できるだけ早めに授けておいた方が吉かと思ってな。式句の書き換え法はあとで教えるよ」 「私の、魔導具」  まだロナルドの体温の残滓を残すそれは、太陽の光を反射して白銀に煌めいた。 「綺麗……」  左手首に嵌めると、想像よりもずっしりと重く、けれど心地良く馴染む。長い睫毛を震わせて、エリザベスは心から誓った。 「大切にします」  夕刻。窓の外は燃えるような夕焼けに覆われる中、エリザベスは濃紺の軍服を脱ぎ簡素な私服に着替えた。色気も何もない、とレベッカには怒られそうな、動きやすさ重視のパンツスタイル。でもきっと、ジャックは受け入れてくれる。  落ち着かない心持ちで訪問を待っていること十分ほど、ついにドアベルが鳴り、飛ぶような速さでエリザベスは戸を開けた。 「お待ちしてました。ジャックさ、ま……」  作りかけていた笑顔は、来訪者の姿を視認する中で消えていった。  顔を隠す異様な仮面に、全身をすっぽりと覆う黒いフード。これでは誰だか判別がつかない。が、背丈から察するに、エリザベスが想定していた人物ではない。  誰何しようと口を開いたエリザベスは次の瞬間、衝撃に全身を打たれた。 「――迎えに来た」  この声。  忘れるはずもない。  足元から冷気が体を駆け上り、エリザベスは身を震わせた。  来るべき時が来てしまったのだ。 「わかったわ」  そう応えるエリザベスの声は、機械のようで、自分のものとは思えない。否、昔の自分はこのような声をしていたか。  仮面の来訪者が差し出す仮面とフードを身につけながら、エリザベスの感情は腹の奥底に沈んでいく。  ああ、でも。  最後に、カーニバルは行ってみたかったな。  そして、エリザベスは忽然と姿を消した。  イワチェリーナ帝国からの宣戦布告を受け、ミュンエルン王国が開戦したのは、この次の日のことである。
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