清野 芽依  序:籠

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清野 芽依  序:籠

「蟻地獄って英語でなんて言うか知ってる?」  そう言ってきたのは誰だったかもう忘れた。私にはどうでもいいことだから。  ジメジメする和室は静かで、吸われたタバコがチリチリと葉を燃やす音だけが私の耳に届く。  それからしばらくして、息を深く吸い込む音。私は声を出すことも許されない。  ただ、遥か昔のように思える誰かの言葉を反芻して、これから来る痛みという現実から逃れようとしている。 「アントヘル? 確かに、蟻はアントっていうし、地獄はヘルだから間違ってはないね」  バカな私の答えを聞いても、朗らかに笑ってくれるだけの人。そんな人が確かにいた気がするけれど、でも、そんな人は私が頭の中で作りだしただけの妄想の友達なのかもしれないとも思う。  だって私は、ずっとこの地獄から逃れられない。 「……っぁああっ」 「五月蠅い! 声を我慢することも出来ないのか」  皮膚にタバコを押し付けられて声を出さずにいられる人がどれだけいるのだろうか。  何度このをされても声を最後まで耐えられたことはない。  最初は手の甲にされた。次は腕に……脛に、二の腕に、お腹に……そして太腿に。  醜い円形の火傷はケロイド状の傷痕になってずっと消えないままでいる。  まだ長いタバコをもみ消した父親は、そのまま私に馬乗りになって腹を殴り、気が済むと息を荒げたまま立ち上がる。 「反省しなさい」  去り際にわたしの腹に爪先をめり込ませてから、背を向けると父は部屋を出て行った。  引き戸を閉められ、外側から錠をかけられて、部屋には静寂と平穏が戻ってきた。  蟻地獄の話をしてくれた誰かのことを思い出す。  蟻地獄は、いつか成虫になって地の底を飛び出すのだと。  わたしも、大人になればこの地獄の様な場所から出られるのだろうか。  窓一つ無い土壁に触れると、ざらざらと表面が削れて畳の上に落ちていく。灯りも灯らない静寂の中で、わたしは膝を抱えて座る。服に擦れてタバコを押し付けられたばかりの場所がじくじくと痛み始める。  こうして顔も分からない誰かの思い出を反芻しているから私はいつまでも愚図のままなのだろう。  してしまった失敗を省みず、私はいつか大人になってこの地獄から羽ばたいて逃げることだけを考え続けている。  しかし、省みることが出来るのだろうか?  生まれてしまったこと事態が失敗だとしたら、私は何を省みればいいというのだろうか。  その答えを両親(あの人たち)が教えてくれたことはない。
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