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4、今日も妹を探す旅(後編)
僕はすぐに顔を洗って大雑把に髭を剃り、寝巻きの上から分厚いコートを羽織って車を出した。道中のコンビニで買った二杯のホットーコーヒーをドリンクスタンドに差し込んで、事前に教えてもらった里衣の家の前へ向かう。
彼女の家はとても綺麗とは言えない、古びた木造二階建てだった。妻に先立たれてしまった老いた漁師が住んでいそうな家だった。
彼女は道路すれすれに面した玄関先の軒下で、すりガラスの入り口扉に背をもたれながら待っていた。彼女は長い髪をストレートで下ろしており、使い込んだ箒のようにまとまりがなかった。
誰もいない交差点の赤信号で止まっているとき、助手席の里衣はとても寒そうにしていた。使い古された真っ赤なジャケットを羽織っているのだけど、サイズが合っていないようで首元に隙間ができていた。
「コーヒー飲む?」
「悪いよ、車出してもらってて……」
「飲んだほうがいいよ、落ち着くと思う」
彼女は目で会釈をして、スタンドからカップを手に取った。クルミを抱いたリスのような格好で、口から湯気を漏らしている。しばらくの沈黙。白い猫が暗闇の中、民家の間を駆け抜ける。ルームミラーから吊り下げられた折り紙のくす玉がエンジンに共鳴して揺れる。
僕は自分が任されたことの緊張感を肌で感じ、気を引き締めた。
「海、海が見える……。風。鳥もいる……」
「聡乃、何か建物とか、ない?」
「……灯台が見える」
緩やかに湾曲した海岸沿いの道路。車通りはほとんどなく、時折年季の入った軽トラックとすれ違うだけだった。僕はハンドルを握りながら、横目で里衣を見る。携帯電話を耳にあてる、意欲と陰りがないまぜになった横顔。口元は下がり、白い歯がのぞいていた。霜のおりた花弁のようだ。彼女の顔越しに、日の出が見える。
「灯台か。この辺で言うと、北の海岸線にあった気がする」
「ほんと?」
「ねぇ! 聡乃さん? その灯台って、頭丸い?」
里衣は僕の大声を受け止めるように受話器を口元へ寄せる。
「チェスの、駒のよう……」
「ルーク? ポーン?」
「白のポーン」
ポーンなら、このまま海岸線を行けば辿り着くはずだ。
「里衣ちゃん、大体わかったよ」
「早く行こう」
僕は頷いて、アクセルをもう一センチ深く踏み込んだ。
僕たちは頭の丸い灯台の元に車を停めて、あたりを見渡した。向こうから灯台が見えると言うことは、僕たちからも彼女の姿が見えるということだ。
背に冷たい海風を受けながら、僕たちは陸の方を見渡した。奥行きのある階段のような地形をしていて、畑や民家、小さな商店が広がり、電線がボーダー柄のように走っている。ほんのりと堆肥の悪臭が漂っていた。
「聡乃ー!」
「聡乃さーん!」
僕たちの声が遠くの山に反響する。白い息が海風にかき消され、コートの内側に冷気が縫い糸のように滑り込む。喉が徐々に水気を失い、ヒリヒリする。
「いた、あそこにいた!」
里衣の指先には、青いトタン屋根を備えた小さなタバコ屋があり、その前に茶色のウールコートを羽織った少女が立っていた。無人島に遭難した人のように、でもどこか弱々しく手を振っている。コートの隙間から桃色のパジャマがはみ出している。聡乃の足元にはオンボロの自転車が横たわっていた。
「里衣ちゃん、車に乗って……」
という僕の言葉を聞く前に、里衣は妹の元へ駆け出していた。僕もつられて後を追った。途中で車に鍵をかけ忘れたことに気付いたけど、振り返らなかった。僕らは人を助けにきたのだから、車が盗られるはずがない。
帰りの車には重苦しい沈黙が漂っていた。荷台に押し込まれた妹の自転車だけがガタガタと場違いな音を立てている。
聡乃は天使に寝床から誘い出されてからタバコ屋の前に佇んでいるまでの記憶がなく、体だけが疲弊している様子だった。あの場所は実家から三十キロも離れていたし、例の自転車は走ることに特化したロードレーサなんかではなく、普通のママチャリなのだ。彼女は後部座席でぐったりている。でも寝ることはなく、海沿いの景色を薄目で眺めていた。
里衣は腰をシートの前方にずり落としながら、シートベルトを枕がわりに眠っていた。彼女の目尻から小さな涙の粒が顎にかけて垂れ下がっていた。車に揺られてその粒はふるふると揺れている。防波堤に打ち上げられた青魚のようだ、と僕は思った。このままでは彼女の潤いは腐敗してしまう。
「ねぇ、お姉ちゃんの彼氏?」
聡乃は少しかすれた艶のある声でそう尋ねた。
「いいや、ただの運転手だよ。雇われの」
「ふぅん」
「……散歩は楽しかった?」
「楽しかったんだと思う」
「覚えてるの?」
「心の底にね、自転車で走っている時の喜びが残っているの。飴を舐め終えた舌の、シワシワした感覚みたいに」
「寝起きの、夢の切れ端みたいに?」
「うん。不思議だよね。目が覚めたとき、あんなに寒くて怖いのに」
「夢の世界では楽しかった……」
「私、パパもママもお姉ちゃんも、みんな好きなのに。どうして迷惑かけてばかりなんだろう」
聡乃は姉と同じ形の涙を零した。
僕は二人を家の前に下ろし、里衣から二千円を受け取った。またサークル棟の部室で、と言い残して車を発進させる。サイドミラーから二人が並んで手を振っているのが見える。ミラーから目を離すその直前に、玄関から寝巻き姿の母親がでてきて、里衣の頬を叩いた。僕は慌てて振り返ったが、二人はすでに家の中に消えていた。
それから僕は、ほぼ毎日のように里衣から呼び出された。聡乃の夢遊は日に日に悪化し、彼女の目的地は夜空の星屑のようにどんどんと散らばっていった。里衣が妹の居場所を聞き出す口調は徐々に荒々しくなり、応答の声はか細くなっていった。途中から僕が運転しながら電話をした。
十三回目の捜索で、ついに聡乃はいなくなった。一週間後に家から徒歩五分の河川敷で見つかった。彼女の体はヨシに絡まっていた。
僕は十三回分の給料を香典として送った。葬式には出なかった。聡乃は天使によって川に突き落とされたのか、天使の手を振り切った拍子に落っこちたのか、検討はつかない。けれども、どちらにせよそれは不気味なことで、葬式に出たり里衣と話したりする勇気が出なかった。
一度だけ、里衣と電話をしたことがある。葬式から一ヶ月ほど、彼女は大学を休んでいた。折り紙同好会の作品展に参加するかどうかを尋ねるよう他の部員に頼まれたのだ。
「やあ、村瀬だけど……」
「ねぇ、村瀬くん。もし、私がいつか天使に導かれることがあったら、探しにきてくれる?」
まるで、彼女が電話をかけてきたような話ぶりだ。
「ああ、それはもちろん。できる範囲で」
「どこへでも?」
彼女のしゃべり方は、胸ぐらを掴むみたいだった。
「うん、どこへでも」
それから僕は彼女から電話をもらったことはない。でも、日の出や夕日を見るたびに電話を耳に当てた彼女の横顔を思い出し、左のポケットに入ったスマホに触れた太ももがむずむずするのを感じる。いつか、例えば映画館でつまらなさそうなポスターを眺めているときなんかに、彼女から呼び出されるかもしれない。
〈続く〉
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