2、忘れてサンドウィッチ

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2、忘れてサンドウィッチ

 氷と珈琲に半身を埋めた、プラスチックのストローを見ると思い出す。一ヶ月だけ分かり合えた女の子のことを。帆鳥(ほとり)はとても素敵な子だったけれど、あっさりといなくなってしまった。つまらない本に気を取られて降り損ねた駅のように。  僕と彼女が出会ったきっかけはサンドウィッチだった。大通りから三回も曲がって辿りつく、ちょっと薄暗い小さな店「こもれび」。そこで僕と帆鳥はたまたま同じタイミングで入店して、運ばれてきたサンドウィッチが入れ替わってしまった。僕が頼んだピクルスたっぷりのサンドウィッチを、彼女は恨めしそうに抱えて僕の元へやってきた。 「ええと、なにか?」 「私、ピクルスとを憎んでいるの」  僕はそう言われて、手元のサンドウィッチがなぜ物足りないかに気づいた。 「なるほど、それで」 「交換して」 「もうかじっちゃったよ」 「所詮、唾液なんて誰も同じ成分なんだから」  彼女は強引にサンドイッチを取り替えた。僕はピクルスの入っていないチーズサンドウィッチをあまり食べ物として認めたくなかったのだけど、彼女はそれを美味しそうに頬張った。僕も彼女がかじったサンドウィッチを食べた。  帆鳥は同じ大学に通う美術学科の子だった。いつも淡くて明るい色の薄い服を着ているけれど、専攻は書道で、滝を駆け上がる竜のような文字を書く。小筆のようなポニーテールがトレードマークだった。  僕たちは「こもれび」でたびたび顔を合わせるうちに、お互いの毎日について他愛のない話をするようになった。  そのとき、僕は街のお祭りの広告をデザインする小さなコンペに向けて準備をしていた。帆鳥は僕の手元の画用紙を指差して、 「とても素敵なデザイン」  僕はそれをお世辞だと思ったけど、 「ありがとう、気に入ってくれて」 「リップサービスだと思ったでしょ」 「そんなことないよ」 「私、そういうのいろいろ分かるの」  僕は彼女が僕の欺瞞を暴いてくれたことが嬉しかった。気持ちが少し軽くなる。彼女に対しては、もう一段階ほんとうのことを言っていいんだ。  帆鳥は僕をとても素直に応援してくれた。僕は今まで誰かに応援されたことなんて滅多にないことに気づいた。だから、彼女からの声掛けがとても嘘みたいに思えたのだけど、信用したほうが心地いいから自分を騙して信じることにした。その一年で一番精神的に豊かな時を過ごしたと思う。心の中の収穫祭のようだった。  僕も彼女の課題制作を応援した。書道のモチーフについて僕が普段抱いているイメージを話した。大半は気取ったでっち上げのイメージだったけど、彼女はとても参考になると言ってくれた。僕の目を見ながら。 「私、ストローを憎んでいるの」  帆鳥は「こもれび」のオリジナルオレンジジュースのカップを手にしながら言った。 「ピクルスにストロー。ファストフード店は君の憎しみが詰まっているね」 「ねぇ、どうしてだと思う?」 「ヒントは?」 「思ったままを言ってほしい」  僕はその問いに答えがないことを念入りに確認してから、 「オレンジジュースの中に入っている果肉の粒の気持ちになって考えると、ストローはちょっと怖いかもしれない。わかる?」  彼女は手のひらを顎の前で組んでふふと笑った。 「なんとなく」 「で、正解は?」 「昔ね、親戚の子供がストローを咥えたまま転んで、喉を貫いちゃったの。うなじから赤いストローがニョキって生えるところを見ちゃって」 「それは中々、衝撃的だね」 「そうだね」  彼女は首の後ろをさすりながら肩をすくめた。  デザインのコンペは奨励賞だった。一番良い賞ではなかったけど、僕は帆鳥と一緒に作り上げたことに満足していた。一つだけ気に入らなかったのは、彼女が希望のイメージとして提案した薄い黄色が、審査員の中年男性に古臭いと講評されたことだった。  次の日、僕たちは「こもれび」でテーブルを囲んでいた。手伝ってくれたお礼に、ピクルスもスパイシーなソースも入っていないチーズサンドウィッチを奢る約束をしていた。 「どうしたの? 今日はやけに静かじゃないか」   妙なことに、帆鳥は店にやってきてからサンドウィッチがやってくるまで一言も喋らなかった。ただ、まるで宙に浮かぶ猫を見るような目で、不思議そうに僕を眺めていた。 「ひょっとして、僕が寝ている間に誰かが顔に落書きをしたのかな」 「そうかもしれない」  と言いながら、彼女は背筋を伸ばした。 「まさか。僕ほどキャンパスに適さない顔はないよ……」 「ごめんなさい、私、あなたが誰だか全く思い出せないの」 「え?」 「さっきからずっと、思い出そうとしているんだけど……。ごめんなさい」  その言葉を聞いた途端、どういうわけか僕は彼女が他の人に変容していくような気がした。鼻や唇のラインが揺らぎ、徐々に見覚えがなくなっていく。肌の色が色褪せていく。  僕は一通りこの一ヶ月にあったことを話して見せたが、彼女は返事は曖昧でぬかに釘。話を聞きながら、ストローでアイスコーヒーを飲んでいた。 「どうしてだろう。僕、この一ヶ月はとても楽しかったのに」 「本当に?」  僕は心が締めつけられた。喉の奥が酸っぱいような気がする。当の本人から否定されるなんて思わなかった。ところが、本当にこの一ヶ月が楽しかったのかについて僕は徐々に確信が持てなくなっていった。子供の頃に作った砂の城の形が、はっきり思い出せないように。  帆鳥はサンドウィッチを持たずに立ち上がり、さようならと小声で囁いて店を去った。それ以降、彼女のことは一度も見ていない。 〈続く〉
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