6、バナナ足のマスター(前編)

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6、バナナ足のマスター(前編)

 僕が半年ほどアルバイトをしていたバーは、とても密かな場所だった。大きなクジラの胃液にぽっかり浮かんだ木製のタルのように。  新宿駅の一番小さな出口から年季の入った道路を進み、三回折れた路傍に二階建てのビルがあった。一階は錆びたパイプ椅子が二つしか置いてないような細長いコインランドリー。二階に続く細い外階段は黄色と黒のロープで入れないようになっていて、二階のすりガラスの窓はいつも暗闇を湛えていた。この世界から永遠に隔絶された何かが佇んでいるような気がした。  コインランドリーの脇には、金魚が水面に突き出した口のような入り口があって、地下へ続く傾斜の急な階段が伸びている。階段の先には木製の扉があり、「Bar Kiro」と書かれたパネルが吊り下げられている。  そのパネルはお酒の缶やラベル、コルクなどを切りはりして作られたもので、全てのアルファベットはフォントも色も大きさもバラバラだった。なんとなく手の込んでいる印象を受ける一方で、全体としてはゴミの寄せ集めのようにも見えてしまう。このパネルからイメージされる店内は、あまり気持ちの良いものではないと僕は思うのだが、マスターが信念に基づいて手作りしたものなので、それを伝えることはなかった。  扉を開くとカウンター席が九席だけ縦に並んでいて、他に席はない。カウンター席の背もたれと壁の間はとても狭く、人がすれ違う時には体を平行にして背中をこすり合わせないといけなかった。  カウンターに並ぶ席は全て異なる形と色をしていた。高校の体育館にありそうな安っぽいパイプ椅子から、中小企業の社長室に置いてありそうな革張りのチェアまで。まるで中古品店が持て余した品の山から無作為に選んできたみたいで、それらが同じバーの椅子として並ぶと、なんだか行き詰まった首脳会談のような雰囲気を醸し出していた。ただ、これもまたマスターが意図的に選んだものだった。  マスターは七十歳くらいの見た目をした老人で、いつも黒いベレー帽と黒ぶちの眼鏡、白くて丸っこい手作りの布マスクをつけていた。服装はバーのマスターらしくない砕けた感じで、いつも異なっていた。  彼の顔は干上がった大地のようにシワが張り巡っていて、白っぽかった。目はやや落ち窪み、深い二重が印象的で、その溝はいつも湿っていて赤っぽかった。その何処か痛々しい目元は、泥だまりから小石を持ち上げたときにできる小さなくぼみを連想させた。  彼の右足は内側に曲がっていた。収穫するのを忘れられて熟し切ったバナナのように。彼はいつも松葉杖をついていて、動きがゆったりとしていた。たった九席しかないバーで僕をアルバイトとして雇っていたのは、混み合う時間帯を一人で捌き切るには足が不自由だったから。高いところに置かれたあまり注文の入らないお酒を持ち出したり、地面に落ちた氷を拾ったり、床を拭いたりするのは僕の重要な仕事のうちの一つだった。  マスターは客から注文を受けたときに一切反応を示さない。客に目配せをしたり、首の角度をちょっと変えたりすることもない。だけど、彼の動きが持つ意図の流れのようなものは客の声を受けて変化する。よほど鈍い客ではない限り、その流れの変化を汲み取ることができるので、注文をもう一度言い直したりすることはなかった。  彼が言葉を口にするのは、飲み物を受け渡すときだけだった。彼はその日の新聞を切って作ったコースターの上にそっとグラスを置いて、まるでグラスについたタイトルを読み上げるようにその飲み物の名前を口にする。ギムレット、ダイキリ、テキーラサンライズ。  ある日、客が帰った後の店内を一通りモップがけして、グラスを磨き、エプロンを畳んで帰ろうとしたとき、マスターが僕を目線で呼び止めて手招きをした。僕は彼の意図をアルバイトとしての義務に結びつけて考えてみたが、何一つ思い当たらなくて不安になった。僕はもしかして何かやるべきことを怠っただろうか。僕は促されるままに、マスターと隣同士でカウンターに座った。マスターは竹編みの丸い背もたれがついた椅子に、僕は足のつかないくらい高いカウンターチェアに。  彼の手元には紺色にくすんだ瓶のジンと、二つの小さなグラスが置かれていた。彼は手本を示すようにジンを注ぎ、ストレートで飲んだ。小さなチョコレートを口に放り込むような手つきで。僕も同じように飲んだ。とろみのある冷えた液体が食道を降りていくのがはっきりとわかる。特別な仕込み方をしているのか、爽やかな柑橘の香りが喉の奥から湧きあがる。 「君の靴は、悪くない」とマスターは言った。灰色の髭の塊をもそもそと動かしながら。 「安物ですよ。地下鉄の七人がけに並ぶ七足の靴を比べたら、僕のがいつも最下位です」 「形が特に優れている」  僕は彼の靴に対する価値観について少々考えてから、チェアからぶら下がった一組の足の先端をを眺めた。汚れが目立たないからという理由で買った紺色のスニーカー。一年以上履いているものだから、縫い目は荒れていて、全体的に色のムラがある。都会で暮らすドブネズミの夫婦を連想させた。 「私はずっと昔に、靴を集める仕事をしていた」とマスターは言った。口の前で冷たいジンを揺らしながら。その液体がなす渦巻きは、彼の記憶を呼び覚ます役割を果たしているようだった。僕は黙って彼の話に耳を傾けた。彼は曲がった右足の太ももをさすりながら口を開く。 〈続く〉
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