雨上がりの帰り道

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 私、野沢左近(のざわさこ)、小学三年生は、お母さんが大好きだ。  お母さんは料理が得意ではないので、正直あまり美味しくない。「不味いね」って言うと「なれてね」って太陽みたいに笑う。  お母さんは食事中にご飯粒を飛ばして良く喋る。「汚いな」って言うと「拾って食べるから大丈夫」って太陽みたいに笑う。    お母さんは洗濯物をシワシワのまま干すから、私の洋服はシワシワ。「恥ずかしいな」って言うと「着てるうちにシワは伸びるから大丈夫」って太陽みたいに笑う。  お父さんも、お母さんが大好き。だって美味しくない料理も残さず食べるし、シワシワな洋服を「デザイン」とか、意味不明なことを言って笑ってるから。  お母さんは、学校の授業参観に必ず五分ぐらい遅刻してくる。しかも授業中に後ろからジョークを飛ばして皆んなを笑わせる。帰り道「目立って嫌だな」って言うと「目立つの上等!」って、お母さんはケタケタ笑った。  あの日、お母さんと手を繋いで歩いた歩道から見上げた空には夕日が赤く燃えていた。  小学五年、私はお母さんが嫌いになった。その原因は授業参観だ。遅刻してきたお母さんを見て男子が笑った。 「デブ」「ダボッとしたワンピースがシワシワ」「ブス」そんなヒソヒソ声が耳に聞こえたからだ。お母さんのことを言ってるわけじゃないかも知れない。だけど私にはお母さんのことを言われてるようにしか思えなかった。  家に帰り「もう授業参観に来ないで」って睨むと「それはできない」と、お母さんは笑う。ムカッてきた私はお母さんに絶叫した。 「お母さんはデブでブスで洋服もシワシワだから恥ずかしいんだよ!だから授業参観に来て欲しくない!後、料理も不味い!それから笑わないで、気持ち悪いから」  これは本当の気持ちだから、言いすぎたとは思わない。見上げたお母さんは、やっぱり笑顔だった。子供の言うことなんかってバカにしてるんだろう。大嫌い。  だけど、翌日からお母さんは変わった。気づいたのは夕食時、いつも幸せそうに大盛りのご飯を食べてるお母さんがいない。私は対面席に座るお父さんに聞いた。 「お母さんは?」 「今日からウォーキングするって出てった」 「なんで夕食時に?」 「夕食を抜くから、お前やお父さんが食べてるの見るの辛いんだろうな」  お母さんが夕食を抜いてダイエットするようになったのだ。変化はそれだけじゃなく、洋服にアイロンもかけるようになったし料理の味も変わった。  ある日の夕食時、お父さんが私に聞いた。 「おかずの味はどうだ?美味しいか?」 「美味しいけど、なんか……」 「なんだ?」 「駅前のレストランの味に似てる」 「そっか」 お父さんは箸を置く。 「みんなレトルト食品だもんな」 「レトルトってなに?」 「分かりやすく言えば、食品工場で作った料理を温めただけだ」  私も箸を置いた。 「なんでお母さんは料理しないの?」 「その答えは、左近が一番知ってるだろ?」  そうだ。知ってるのは私。だってお母さんが変わったのは、あの日からだったから。 「なんか、つまらないな」  お父さんは料理を半分も食べずに残すようになった。  三ヶ月後、お母さんは痩せて見違えるように綺麗になった。ピッタリと身体の線が出る服を着て料理をしているお母さんの後ろ姿は別人だ。  お母さんは笑わない。あまり喋らない。授業参観にはスーツ姿で時間ピッタリに表れ、唇を固く結んでジョークも言わない。  クラスメイト達は、お母さんを見て「綺麗」と言う。「美人」と言う。もう、お母さんは恥ずかしくない。理想のお母さん。  でも何でだろう?参観日の帰り道は雨だった。  その夜、ウォーキングから帰ってきたお母さんに私は聞いた。 「なんで、洋服にアイロンかけるの?」 「シワシワが嫌だから」 「なんで料理しないの?」 「不味いから」 「なんで喋らないの?」 「喋ったら楽しくて笑っちゃうから」  ダメだ。鼻がツンッて痛んで泣いちゃいそう。 「何で夕食、食べないの?」 「痩せたいから」 「なんで痩せたいの?」 「授業参観に行きたいから」  もう滲んで前が見えない。私はスリ硝子みたいな視界を振り上げた。 「なんで、授業参観に……」 「行くよ。それだけは譲れない」 「だから何で?」 「授業参観が、お母さんの楽しみだから」  見えない変わりに耳だけは良く聞こえる。お母さんが泣いてる。私がお母さんを傷つけた。私が変えちゃったんだ。 「ごめん……」 「何が、ごめん?謝ることなんて何もない」 「だって、私が言ったから」 「お前が嫌なとこ、お母さんは直すよ。だって嫌われたくないから」 「なんで?」  瞬間、視界が真っ暗になって左頬が強く押し当てられる。汗の匂い。お母さんは私を抱きしめた。 「嫌われたくない理由なんて一つだよ」  背中に回された両手がぎゅうぎゅうと私を締めつけてくる。お母さんは、涙声でこう言った。 「左近が大好きだからだよ」  その後、私はお母さんに元に戻って欲しいってお願いした。授業参観で皆んなに褒められたお母さんだけど、私は嬉しくなかったから。  私はお母さんが大好きだ。料理が不味くても、良く喋ってご飯粒を飛ばしても、洋服がシワシワでも、デブでもブスでも、授業参観に遅刻してジョークを飛ばして目立っても、お母さんに笑って欲しいから。それが私のお母さんだから。  小学六年、お母さんは元に戻ったけど、戻らなかったこともある。洋服がシワシワじゃなくなったことと、食後のウォーキング。今では、私もお父さんも一緒に歩いてる。  雨の授業参観日、ちょっとだけ太ったお母さんのジョークで先生や皆んなが腹を抱えて爆笑する。友達は私にこう言った。 「あんな楽しいお母さん、羨ましいな」  帰り道は雨が止んで、千切れ雲から光が差していた。 「見て、虹だよ」 お母さんが空に指を差す。私はお母さんと繋いだ手をブンブン振った。 「お母さん、だーいすき!」  すると、お母さんは太陽みたいに笑ってこう言った。 「そんなこと、とっくに知ってる」
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