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まちがいの始まり
「いやっ、やめて……」
近過ぎる男の視線から顔を背けて懇願する。
「俺を誘ってたくせに、今更そんなこと言うのか?」
「私が? いつ?」
男の目を睨みつけて抗議した。
「今もだよ。その香水、艶めかしくてクラクラするよ」
「お願い……やめて……」
この状況から逃れられるのなら何でもする。
「聞いたよ。誰にでも抱かれる女なんだろう? 俺じゃあ駄目だって言うのか?」
「…………」
涙が零れた。どんなに抵抗しても力では敵わない。ベッドに組み敷かれて、もう抗う気持ちも失せた。こんな好きでもない男と……私は……。
ただ、男の気が済むのを唇を噛み締めながら待った。三十分だったのか、一時間だったのか……。苦痛でしかない時間が過ぎた。
突然男は驚いたように私の体から離れた。
「おまえ……。初めてだったのか?」
「初めてだって言ったらやめてくれたの?」
「済まない。まさか初めてだなんて……」
後悔してるとでも言いたいの? 自分が何をしたのか分かってるの?
私はこんな男に返事をする気もなく、ただ乱暴に脱がされたお気に入りの服を拾い集めて身に着けてバッグを掴んでヒールを履き部屋から出てエレベーターで下り外に逃げ出した。
ここは何処だろう?
運良く通り掛かったタクシーがつかまって乗り込んだ。少しでも早くこの場所から離れたかった。
一人暮らしのマンションに戻って、すぐにシャワーを浴びた。何度も何度もボディソープを付けたブラシで体を擦った。それでも体に、あの舐めるようなおぞましい感触が残って……。悔しくて許せなくて泣きながら死んだように眠った。
翌朝、目覚めて……。腕が引き攣るように痛い。あんなに必死で抵抗したのに……。昨夜のことを嫌でも思い出した。絶対に許さない。
会社に行く気にもなれない。……休みたい。
でも、きょうは重役会議が入っていて、どうしても休めない。仕方なく起き上がって重い体を引き摺ってコーヒーだけ入れて飲む。
メイクをして着替えようと鏡の前に立った。痣……。下着を着ければ隠れる場所に……。泣きたかった。
忘れよう。無かったことにしよう……。いつものように出社した。会社に居れば忙しさに気も紛れるだろうから。
あいつにさえ会わなければ……。
会議の資料やお茶、食事の準備などに追われて忘れていられた。
「お疲れ様でした」
会議も無事済んで後片付けも済み秘書課の私は明日の予定を確認して仕事は定時で終わった。
きょうは真っ直ぐ帰ろう。昨夜は一人でワインバーなんかに寄ったのが間違いだった。
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