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「長谷川って、用事が無かったら誘ったらあかん奴なんか……」
岡本の言葉に、泰生もぽかんとしてしまった。ほとんど初対面の人間から一緒に食事をしようと言われたら、時間を作って話したい何かがあると思うのが普通ではないのか。
「いや、そうやないけど……わざわざ誘ってきたら何か用事かなと思うやん」
「別に用事は無いねんけど」
「……あ、そうなん? ということは、単に交流を深めるひとときなん?」
ちょっと面倒くさいと思いつつ泰生が言うと、岡本は笑顔になり、そうそう、と答えた。
「だって俺ら文学部生って、春からこっちのキャンパスに来て、皆アウェーやん? 仲間欲しいやん?」
岡本の言葉に共感はするが、泰生はそこまで仲間が欲しいとは思っていなかった。同じゼミの子たちとも特に親しくしておらず、部活を辞めてしまった今は通学時も独りだが、不便とも寂しいとも感じていない。
その時、右耳の傍でぷうん、と嫌な音がした。泰生は首を右に振り向け、後頭部の辺りから黒い小さなものがふわっと飛んだのを確認した。
「蚊がおるわ、そっち行ったで……あっ」
泰生が岡本のほうを向くと、蚊はサンドウィッチを持つ岡本の手の甲に止まろうとしていた。反射的に泰生は腕を伸ばし、岡本の右手を叩く。ぺちっと軽い音がしたのと、ひえっと岡本が叫んだのがほぼ同時だった。
「怖いって!」
「ごめん、思いきりしばいた」
岡本は辛うじてサンドウィッチを取り落とさず堪えていた。泰生の攻撃を逃れた細い足を持つ虫は、今度はこちらに向かって飛んでくる。泰生は蚊を視界から外さないよう、その姿に集中した。
「ちょ、真剣過ぎひんか」
岡本が言い終わらないうちに、泰生は飛来してきたものを両手で思いきり挟んだ。ぱん! と高い音が鳴り、教室の中にいた他の学生が一斉にこちらを見た。
泰生が合わせた手を開くと、蚊は右手の手根部でぺったんこになっていた。誰の血も吸っていない。よっしゃ、と満足感から思わず呟くと、岡本がぷっと笑った。
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