蚊が飛ぶ教室にて

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「集中力と反応すごいな、何かスポーツしてたん?」  泰生は購買部でもらった紙ナプキンで、蚊の死骸を拭き取った。こんなことで持ち上げられると、照れくさいというか、ほとんど居たたまれない。 「ううん、俺は運動音痴……最近まで楽器やってたけど」 「楽器?」  岡本はサンドウィッチを頬張りながら、明らかに興味を示してきた。うっかり口にしてしまったものの、楽器の話はあまりしたくないので、泰生はうどんを啜ってごまかそうとした。自分が麺をずるずる言わせる音だけがして、微妙に気まずい。 「……何?」 「え? 何やってたんかなぁと思ってる……」  岡本の探るような視線に、まあ当たり前か、とも思う。楽器に触っている人間の割合なんて、この大学の中で、いや、日本社会全体を見てもそんなに多くはない。音楽に興味が無くても、楽器をやっていると相手が口にすれば、何をやっているんですかと社交辞令的に問うだろう。 「あー、吹部でコントラバス弾いてた」  泰生がそう答えて、空になったプラスチックの容器を机に置いた時、岡本がにたりと笑ったような気がした。ちらっと目だけで彼を窺うと、ペットボトルの紅茶をぐびぐび飲んで、何となくニヤついている。  キモいなと泰生が思った時、岡本は口を開いた。 「キャンパス変わったから吹部辞めたっちゅうこと?」 「……そうや、移動すんのしんどかったし」  泰生が警戒しつつ言うと、ははーん、と岡本はよくわからない声を上げてから、晴れやかな笑顔になって泰生を見た。 「あのな、俺チェロ弾きなんやけど」 「は?」 「オケで弾かへん? 練習すぐそこでやってんで」  岡本の言葉に泰生は固まった。その時感じたものは、絶望に近かった。  楽器やってる人間、近いとこにおった。しかも俺と同じく、デカい弦楽器。……これ、詰むやつか。
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