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へらっと言う岡本に、泰生は呆れた。
「チェロの松脂使ってええんか」
「好ましくはないけど、大丈夫……ちょっとやらかいかな」
もう、1音でも出さないと帰してもらえそうにない。泰生は諦めて弓と楽器をカバーから出した。しばらく弾かれていない割には、弓がぴんと張り、状態は悪くなかった。
楽器を立てて抱えながら、岡本から手渡された松脂を、弓に3往復擦りつける。初めての楽器なので、全ての行動に緊張した。
岡本は椅子に座り、楽器を脚の間に立てて、マイペースに音出しを始めた。まろい豊かな音が室内を満たし、チェロってええ音やなぁと素直に思う。
じっと観察されるよりはましなので、泰生はどさくさに紛れて自分も弓を弦に当てた。それをすっと引くと、思ったより深い音が出たので驚く。
この楽器、もしかして上等なんか? 泰生はびびってしまう。まぐれかと思い、解放弦で全ての音を順番に鳴らしてみたが、やはり良い音である。
岡本は泰生に話しかけもせず、アルペジオの練習を始めた。正確なボーイングで明るい音が繰り出され、弦と弓の間で松脂が擦れる音が微かにした。
軽いぱちぱちだ。泰生は思う。松脂を塗った弓と弦の間で音が生まれる瞬間に、いつもぱちぱちと何かが弾ける感じがする。松脂が立てる音なのかもしれないし、弦と弓の間で起こる物理的な抵抗に、そんな印象を持っているのかもしれない。
チェロのぱちぱちは、やっぱりコントラバスより軽い。その発見に気を良くした泰生は、自分もぱちぱちを沢山生み出すべく、アルペジオを弾いてみる。いつもより強い抵抗感に、松脂をつけ過ぎたかもしれないと感じたが、やはり音は前弾いていた楽器よりも深い。
気持ちいいな。泰生が弓を動かすのに集中し始めたその時、練習場の扉が開いたのが見えた。泰生はどきっとする。
岡本も驚いたとみえ、音が同時に止まった。2人が視線をやったその先には、ひょろっと背が高い男子が立っていた。
あっ、と岡本が呟いたのが聞こえた。入り口に立つ男子は、その場から泰生をじっと見つめて、あ然としたまま、ぱちぱちと手を叩いた。
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