思い出を整理する定規

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 友樹は学生時代、展覧会で2回ほど何か賞をもらっていて、大学祭でも毎年作品を展示していたが、泰生や両親には観に来んでええと頑なに言い続けた。拒まれた母は、軟式野球の試合は観に来てくれっていつも言うたのに、と苦笑気味だった。 「何で今、そんなん描く気になったん?」  友樹のスマートフォンの画面が目に入った。大阪の中之島の、中央公会堂が写っていた。晴れた空にテラコッタの建造物が映えて美しい写真だった。友樹は本町で働いているので、中之島周辺をよく知っているはずだが、どうして今更この建物なのだろうか。 「いや、いろいろ思い出もございまして……」  友樹はスケッチブックから顔を上げないまま半ば呟き、再び定規を手にする。彼が引いている線は、おそらくパースのための下書きだろう。 「思い出?」 「そうや、この辺で結構デートしたし」  泰生は、ああ、と言葉にならない声を洩らした。兄がどれくらいこの絵を仕上げるつもりかわからないが、Bの鉛筆で引かれたにもかかわらず、薄くて儚い線たちは、そのうち消しゴムで跡形も無く消されるのだろう。泰生には、スケッチブックに定規を当てて無心で線を引く兄が、交際していた女性との思い出を残す、あるいは消すための儀式をしているように思えた。 「昼メシ何かあるか、おかんに訊いてくるわ」  心の中を整理する友樹の邪魔をしてはいけない気がして、泰生はそう伝えてそのまま部屋を出ようとした。すると友樹は言った。 「レンチンパスタとかピザでええで、何かそんなん冷凍庫にあった」 「おとんがハンバーガーがええって言いそうな気ぃするな」 「その場合はチーズバーガーよろしく」  俺が買いに行くんかい、と泰生は胸の中で突っ込んだが、まあいいだろうと思った。そしてふと、自分が旭陽に、今の兄のような思いをさせている可能性に思い到った。泰生の心にちょっと薄暗い雲がかかり、梅雨明けが近い今日の空のようになった。
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