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母は濡れた手を拭いて、目を瞬く。嫌な予感しかしなかった。
「あんた、好きな子に振られたから吹奏楽部辞めたんちゃうんか? 友樹が何かそんな言い方しとったから」
「ちょ、兄貴のその妄想何なん……」
言いながらも泰生は、自分の態度から兄が何かを感じ取っていたらしいことにどきどきしてしまう。母はややテンションが下がったようだった。
「違うん? あ、ちょっと先に加太の宿押さえるで、トマト切れたら玉ねぎ薄切りできる?」
「ラジャー」
母がそちらに気を持って行かれたことに泰生はほっとした。ノートパソコンをキッチンテーブルに持ってきて、母はあけすけに語り始める。
「トマトが好きな人やってん……どこに何食べに行っても、いっつもトマトスライスとか頼んで、おかげで私までトマトの味にうるさい女になってしもたわ」
4個のトマトを無事切り終えた泰生は、玉ねぎの皮を剥き始めた。目に染みるので、無意味だが腕を伸ばして玉ねぎを遠ざける。
「そのトマトマン、学生時代につき合っとったん?」
「うん、2年交際したけど、就職して東京に行ってしもたから、自然消滅や……遠距離で頑張るほど好きじゃなかったんかなって、今更思う」
母の懐かしそうな昔語りからは、トマトマンへの未練などは感じられなかった。父とは社会人になって3年目くらいに出逢ったと聞いたことがあるので、その彼とのことが完全に終わった後だったのだろう。
縁があれば、という昨日の石田の言葉を思い出す。母はトマトマンとは、縁が無かった。でも、加太という土地や美味しいトマトは、彼女の胸に美しい(?)思い出を呼び起こす。
それも一種の縁なんかな。泰生は何となくその思いを愛おしく感じつつ、玉ねぎにゆっくりと包丁を入れた。
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