朝凪の如き夜明け

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 泰生が今までできなかったのは、大きな音を出すことではなく、良い響きをどの弦でも均一に出すということだった。ボーイングも確かに弱かったのだが、もしかしたら、松脂を使いこなせていなかったせいもあるかもしれないと、三村と斉藤から指摘を受けた。三村から借りた上等の松脂は、泰生が弾くことになったコントラバスと相性が良いのか、30分弓を動かすうちに、自分の耳で聴いていてもわかるくらい音が変わってきた。出費が痛いけれど、あの松脂がいいかもしれない。まあ、他に金を使う場所も無いのだから、いいだろう。  喫茶淡竹は、予想外にてきぱき動いた泰生を、夏休みの臨時アルバイトとして雇うことにした。パートタイマーの木村さんの体調がいつ戻るかわからないということと、もうひとりのアルバイトである岡本が、来週からお盆明けまで、和歌山に帰省するからだった。  淡竹の店長の(もり)は、もちろん大学を卒業するまで続けてくれてもいいと言ってくれている。後期になれば、3回生である泰生も岡本も就職活動の準備が始まり、管弦楽団の定期演奏会が近づくと練習の日数が増えてくるので、淡竹の仕事を2人で分担すればいいと森は提案した。実際はそんなに上手く運ばないだろうが、クラブに入ればどっちみち、びっちりアルバイトはできないので、淡竹でのんびりやってみようと考えている。  泰生は目を閉じたまま、深呼吸する。夏の朝のこの涼やかな静けさは、これから自分の生活が変わる、嵐の前のものなのだろうか。  たったの3週間で、いろいろなことが起こった。本当なら、キャンパスが変わった春に経験しなくてはいけなかったことが、後ろ倒しでやってきただけかもしれない。それでも、嫌な感じはしなかった。新しいアルバイトも管弦楽団も、期待感のほうが大きい。ついでに、8年ぶりの家族旅行も。  カーテンから洩れてくる光が少し強くなり、雀の鳴き声が聞こえた。セミが鳴き始めるまで、もう少し眠ろうと思う。今日は10時から、淡竹で仕事だ。
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