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「カウンター空いてますよ、どうぞ」
デニムのエプロンをつけた、店長らしき中年男性が、扉を開けたことを後悔し始めた泰生に声をかけてくれた。泰生は並ぶテーブル席を回避しつつ、店の奥のカウンターを目指した。
店内に広がるコーヒーの匂いが魅力的だったので、アイスコーヒーを注文した。大学では滅多にコーヒーなんか飲まないのに。
店内では店長らしきエプロンの男性がキッチンを担当し、中年女性がキッチンを手伝いつつ、若い男性とともにホールの客をさばいていた。若い男性が水と冷たいおしぼりを、泰生の前に静かに置く。布のおしぼりは、久しぶりに見た気がする。
コーヒーは、大きなグラスに入っていた。ガムシロップとコーヒーフレッシュを少しずつ入れて、ストローでちゅっと濃い色の液体を吸うと、香ばしい香りが鼻腔を通り抜けた。泰生は、おいしい、と心の中でひとりごちた。
「あ、長谷川……やったっけ?」
いきなり声をかけられて、泰生はびくっとして声の主を見た。お冷やとおしぼりを出してくれた男性だった。
「あれ、俺やん、覚えてへんの?」
男性がオレオレ詐欺のようなアプローチをしてくるので、基本的に人見知りの泰生は、警戒してカウンターの椅子の上で微かに上半身を引いた。すると男性は、銀の盆を抱いたまま、自己紹介した。
「日本文学科の岡本やけど……1回の時、基礎英語の作文一緒やった、忘れた?」
泰生は記憶の抽斗をひっくり返した。彼の言うことが本当だとしたら、同じ大学の同じ文学部生なのに、全く記憶に無いと答えるのは失礼過ぎる気がしたからだった。しかし抽斗の中に、彼の名と顔は残っていなかった。
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