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「……ごめん、覚えてへん」
泰生が小さく答えると、岡本と名乗った男性は鷹揚に笑った。
「1回生の1コマだけ顔合わせてただけやったら、まあ忘れるわな」
文学部生は2回生になると、他学科とほとんど授業が被らなくなる。泰生は歴史学科なので、日本文学科との共通科目は今や全く無い。しかし彼も、この春伏見キャンパスに引っ越してきたことを思うと、仲間意識を感じなくもなかった。
岡本はこの店でアルバイト中で、それ以上泰生に話しかけてこなかった。しかしゆっくりとコーヒーを飲んだ泰生が鞄から財布を出そうとすると、岡本は客が帰ったテーブルを片づけながら、言った。
「なあ、RHINE教えて」
「え……」
泰生が戸惑うのを、店長が笑いながら見ていた。
「おい文哉、何で男の子ナンパしてんねん」
「ナンパちゃいますよ、おんなじ文学部の一方的知人ですって」
「一方的って、半分ナンパやないか」
喫茶のピークが過ぎて店が空いてきたからか、店長は岡本に軽口を叩き、中年女性もうふふ、と笑う。普段こういうシチュエーションが苦手な泰生だが、不思議と嫌な感じはしなかった。
「ちょっと待って……」
泰生はスマートフォンを出し、SNSのアプリを立ち上げた。岡本も、グラスが載った銀の盆を引き上げてくると、キッチンのどこかからスマホを取り出す。
「岡本文哉」という名が画面に表示され、久しぶりに泰生のメッセージアプリの友だちが増えた。ふらっと寄った喫茶店でこんなことになるなんて、何となく変な気分だった。でも、ちょっと面白い。
泰生はごちそうさま、と店長に挨拶して店を辞した。コーヒーも美味しかったし、当たりかもしれない。
岡本は扉から顔を出し、今度は学校でな、と言いながら見送ってくれた。喫茶店の存在も、人が行き交う商店街のざわめきも、泰生にはやや現実味が薄い白昼夢のように感じられた。
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