5.──柚月が転ばないように、怪我をしないように──

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 公武も浴衣姿だった。 「……どうして」 「こんなときですけど、せっかくの花火大会ですからどうしても着てみたくなって。柚月さんもだったんですね」  明るいグレーの本麻浴衣に茶とグレーの縞模様の正絹角帯だ。実に着慣れた感じである。 「着付け──お出来になるんですね。すごいです」 「柚月さんこそ。おばあ様に習ったんですか? 僕は剣道をするので道着をつける習慣がありまして。和服も好きで実は割と着ます」  ……似合いすぎです、と柚月はキュッと唇を結ぶ。  不意にポンポンと弾けるような音が外から聞こえた。 「花火?」と公武と顔を見合わせる。スマートフォンの時刻を見るとそろそろはじまる時間だ。「いきましょうか」といいかけた公武が、「あ」と声を出す。 「──浴衣を着ることばかり頭にあって忘れていました。この格好では暗い廊下や階段は危険ですね」 「確かに。下駄は我慢したほうがいいかも。ただ灯りは大丈夫です」  首をかしげる公武を手招きする。さっき見つけた巌の書き置きを見せる。  ──帰りにはこれを押せ。十分で消える設定だから、つけっぱなしでも気にしなくていい。そうあった。 「これです」  そういって柚月は示されたスイッチを押す。途端に通路から階段、それに踊り場まで明るくなる。床に設置した投光器が足元からしっかりと照らしていた。 「ぜんぜん気づかなかった。これも乙部先生が? ……さすがです」  公武は口を開けて通路を見回す。いつもなら「そんなこと」と返す柚月も、素直に「はい」とうなずいた。  巌へ礼をしたためたメモを残して戸締りをする。明るい階段を安心して階下へと進む。ときおり地震が起きたけれど、明るいというだけで心強かった。  そんなマンションを出て薄暗い中へ戻ったころだ。  不意に公武が「今朝」と声を出した。 「陽翔くんからメールをいただきました」  ハッと公武へ顔を向ける。  今朝届いたのなら、陽翔は柚月へメッセージを送るのと同時期に送ったのだろう。 「少し励まされました」 「『おにぎりん』のことですか?」 「いえ」と公武は立ち止まる。マンションからの灯りにうっすら照らされて、公武は柚月へほほ笑んだ。 「あなたの笑顔のことです」 「え?」 「──そんなふうに笑ってくださって、ありがとうございます。とても得難いことだと、彼からいわれました。本当にそうだと思います」  ……陽翔くん、なにをいったの、と視線を泳がせる。  そこにいっそう花火の音が大きくなる。街路樹の間、それにマンションの隙間からまぶしい光が見えた。街灯も家の灯りもなにもないので目を見張る明るさだ。それだけでなく──。 「え? こっちでも? あ。あっちでも」  ポンポンと音が響くにつれて、もう歩きながらなど中途半場にしていられず立ち止まる。公武もうわずった声を出す。 「これは──すごいですね。開催場所なんて関係ない。まさに、どこからでも見える」  それくらい、あちこちから花火があがっていた。
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