41人が本棚に入れています
本棚に追加
「リスです。エゾリス。自転車で会社へ向かっていたときには、悠々と車道でじゃれ合うエゾリスたちも見ましたよ」
プッと噴き出す。目尻に涙まで浮かぶ。ああ本当に公武さんはすごい人だなあ。
「僕、なにか変なことをいいましたか?」
「いえいえ。お仕度、早かったんですね」
「ちょっと着たいものがありまして」
そういって公武は大振りな手提げカバンを見せる。嬉しそうだ。
「ではお待たせしました。柚月さんのお宅へいきましょう」
笑顔のまま公武は柚月の背中を押す。
そこから歩くこと数分。たどりついたマンションの中は予想どおりに薄暗かった。窓明かりを頼りに階段を進む。暗い中で家の鍵を開けるのもひと苦労だ。普段はカードキーなのでなおさらだ。
この分だと家の中も作業も大変だろうなあ。そう覚悟したのだが──。
玄関扉を開けた途端だ。
まぶしいほどの灯りがついて柚月と公武の顔を照らした。
「え?」
二人そろって中を見回す。
「乙部先生が?」
「右手にケーブルが続いている。ちょっと見てきます」
靴を脱いでリビングへ向かう。「気をつけて」と三和土で公武の声がする。
リビングへ入って息をのむ。ひとかかえはある黒い箱が三、四個あった。蓄電池だろう。そこから玄関へケーブルが延びている。
ソーラーパネルも震災直後に見たものよりたくさん窓際に並んでいる。
さらにクリップライトがあちこちにあって、部屋を隈なく照らしていた。
「すごい。これ、ぜんぶ自転車で運んできたのかな」
ひょっとして、と自分の部屋へ向かう。そこもまたすぐに灯りがついた。本棚へクリップ式ライトがついていた。それが明るく部屋を照らした。
公武も「うわー」と声をあげている。
「これはすごい。乙部先生は、いつ柚月さんが戻っても大丈夫なように準備されたんですね」
そうか、と両手を胸で合わせる。
──柚月が転ばないように、怪我をしないように──。
配線から父の思いが伝わってくるかのようだ。……ありがとう。頭をたれる。
それから、この明るさなら、と顔をあげる。
避難所へ戻らなくてもここで十分なんじゃないかな。
クロゼットを開いて箪笥を引いた。奥からそっと──浴衣を取り出す。
ここへ取りにきたもの、それはこの浴衣だ。
最初のコメントを投稿しよう!