5.──柚月が転ばないように、怪我をしないように──

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「リスです。エゾリス。自転車で会社へ向かっていたときには、悠々と車道でじゃれ合うエゾリスたちも見ましたよ」  プッと噴き出す。目尻に涙まで浮かぶ。ああ本当に公武さんはすごい人だなあ。 「僕、なにか変なことをいいましたか?」 「いえいえ。お仕度、早かったんですね」 「ちょっと着たいものがありまして」  そういって公武は大振りな手提げカバンを見せる。嬉しそうだ。 「ではお待たせしました。柚月さんのお宅へいきましょう」  笑顔のまま公武は柚月の背中を押す。  そこから歩くこと数分。たどりついたマンションの中は予想どおりに薄暗かった。窓明かりを頼りに階段を進む。暗い中で家の鍵を開けるのもひと苦労だ。普段はカードキーなのでなおさらだ。  この分だと家の中も作業も大変だろうなあ。そう覚悟したのだが──。  玄関扉を開けた途端だ。  まぶしいほどの灯りがついて柚月と公武の顔を照らした。 「え?」  二人そろって中を見回す。 「乙部先生が?」 「右手にケーブルが続いている。ちょっと見てきます」  靴を脱いでリビングへ向かう。「気をつけて」と三和土(たたき)で公武の声がする。  リビングへ入って息をのむ。ひとかかえはある黒い箱が三、四個あった。蓄電池だろう。そこから玄関へケーブルが延びている。  ソーラーパネルも震災直後に見たものよりたくさん窓際に並んでいる。  さらにクリップライトがあちこちにあって、部屋を隈なく照らしていた。 「すごい。これ、ぜんぶ自転車で運んできたのかな」  ひょっとして、と自分の部屋へ向かう。そこもまたすぐに灯りがついた。本棚へクリップ式ライトがついていた。それが明るく部屋を照らした。  公武も「うわー」と声をあげている。 「これはすごい。乙部先生は、いつ柚月さんが戻っても大丈夫なように準備されたんですね」  そうか、と両手を胸で合わせる。  ──柚月が転ばないように、怪我をしないように──。  配線から父の思いが伝わってくるかのようだ。……ありがとう。頭をたれる。  それから、この明るさなら、と顔をあげる。  避難所へ戻らなくてもここで十分なんじゃないかな。  クロゼットを開いて箪笥を引いた。奥からそっと──浴衣を取り出す。  ここへ取りにきたもの、それはこの浴衣だ。
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