2.彼の名前は「阿寒公武」というのだ

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2.彼の名前は「阿寒公武」というのだ

 遅くなっちゃった、と柚月は足早に地下鉄の改札口を出た。  思いのほかホームルームが長引いた。カニ圧勝の熱気が冷めず、帰宅のタイミングがつかめなかったのだ。  地下鉄直結のスーパーへ入り、挽肉を買おうと精肉コーナーへ向かったときだ。  鮮魚コーナーにスーツ姿の長身男性が立っているのが見えた。  帆立の刺身を浮かない顔つきで眺めている。あの人は、と目を見張る。  間違いない。土曜日の青年だ。  また会えたのが嬉しくて、柚月はにこやかに声をかけた。 「こんにちは」 「へ? ああ、あなたは土曜日の──って、えええっ? 高校生っ?」  青年は柚月のセーラー服姿を見て盛大にうろたえた。 「な、え?」、「ちょ、ま」と意味不明な言葉を短く発し、口元を手でおおう。……同世代と思われていたのかな。喜ぶべきなのか、それとも、と反応に困る。  二分くらいたっただろうか。青年は深呼吸をして柚月へ頭をさげた。 「大変失礼しました。あらためて先日はどうもありがとうございました。とても参考になりました」 「お役に立てたならよかったです」  はい、とうなずく青年の表情が硬い。 「あの、なにかありましたか? えっとその、わたしが高校生だということのほかに」 「えっ。どうして?」 「元気なさそうです。おにぎりが転がっていった土曜日よりずっと」  あー……、と青年はバツが悪そうな顔になる。 「実は、いただいたアドバイスどおりにおにぎりを作ってみたんですが、ぜんぜんうまくいかなくて」 「土曜からずっとおにぎりにこだわっているんですか?」  それって、と声を小さくする柚月に気づいたのか、青年は「いや違うんです」とあわてた。 「実は食品関連の仕事をしていまして。いろいろピンチな状況でして」  なんだ、と柚月は胸に手を当てる。お仕事熱心なだけだったのか。  しょんぼりとする青年へまた「あの」と声を出す。 「ご飯を召し上がっていますか?」 「え?」 「お仕事としてのおにぎりとかじゃなくてご自身が食べたいものです」 「それは……」 「わたし、ご飯はとっても大事だって亡くなった祖母に教わりました。疲れているときほどご飯を食べなさいって」  急いでいたり、うまくいかなくてやけになっていたりするときこそご飯を食べる。それが祖母の教えだった。  食べている場合じゃないよ、といい返すと口に甘い玉子焼きを突っ込まれた。凝り固まった気持ちがみるみるほどけていって、祖母が正しいと柚月はなんど思い知らされたことか。 「素敵なおばあ様ですね。今日の献立はなんですか?」 「シソを混ぜた大根おろしをハンバーグにかけたものにしようかと。あとは、そうですね、カブがあるのでお味噌汁にして、カブの菜っ葉は湯がいて揚げ出し豆腐に添えようかなあ」 「それはうまそうですねえ。彩りもよさそうです」 「彩りって重要ですよね。それなりの味もおいしく感じられますから。父の食も進みますし」 「お父様が羨ましい。僕もしっかり食べなくちゃですね」  ほほ笑んだ青年の顔が次第に真顔になる。青年は小さくうなずくと姿勢を正した。
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