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玄関マットに膝をつき、巌がひっくり返したスリッパや靴を直す。
「お父さんがあわただしいのはいつものことだけど。……なんだかなあ」
リビングへ戻ってソファへ座るとどっと気持ちが沈んできた。
ため息をついてローボードを見る。
そこにコンパクトな仏壇があった。母と祖父母の遺影が並んでいる。
祖父は柚月が産まれる前に、母は三歳のときにいなくなった。
巌と一緒に柚月を育てたのは中学二年のときに逝ってしまった祖母だ。柚月は家事のすべてを祖母から教わった。
その祖母の遺影に唇を尖らせる。
「おばあちゃんに教わったおにぎりもたくさん作ったのよ? 無駄になっちゃった。おばあちゃんはよく我慢できたわよね」
祖母もよく巌にすっぽかされていた。そのたびに祖母は柚月へ明るく笑った。
──あれがお父さんだからね。怒っても治らないからね。
それより、と祖母はいたずらっぽい眼差しで続けるのだ。
──こっちはこっちでワクワクすることをたくさんしちゃおう。
「……そっか、そうだね。このまま不貞腐れていたらせっかくの休みがもったいないわよね」
立ちあがって窓の外を見る。気持ちのいい青空が広がっていた。スマートフォンで調べると札幌の現在の気温は二十二度、湿度は三十パーセント。
まさに六月の北海道らしい天気だ。
チラリと弁当箱を見る。
「ひとりでピクニックしちゃう? お弁当もたっぷり食べちゃう?」
口に出すとワクワクしてきた。
よおし、と立ちあがり、巌の部屋かレジャーシートを探し出した。トートバッグへ弁当箱と水筒を入れて身支度を整えたら準備万端だ。遺影群へ「いってきまーす」と声をかけ、柚月は颯爽と玄関を飛び出した。
目指すは天陣山だ。
マンションから徒歩五分にある標高九十メートルほどの小高い山だ。地質学者の巌によると「火山じゃねえ。四万年前に支笏カルデラを作った大噴火があってよ。そんとき噴出した火砕流の堆積物だ」とのことだ。
専門家の小難しい話はさておき、幼稚園のころから冬はそり遊び、夏はちょっとしたピクニックと、慣れ親しんだ場所だった。
整備された坂道をのぼるとツピツピとシジュウカラやムシクイなどの野鳥の声が聞こえてきた。ニセアカシアの白い花びらが吹雪のように舞っている。
その甘い香りに目を細めていると、足元をエゾリスが横切った。
「わあ、もうお昼なのに珍しい。仁奈と亜里沙に自慢しちゃおうっと」
うふふ、と笑って見晴らしのいい斜面へ向かう。手入れのされた草地が広がり、すでに何組かがレジャーシートを広げている。
柚月も木陰エリアにシートを広げる。やや傾斜がきついからか、ほかの家族連れとは距離がある。シートに座って前を向けば札幌市内を一望できた。
「奥の山が手稲でしょう? あの左手の山が円山かな? すごい。くっきり見える」
ひと息眺めて弁当箱を取り出した。
北海道版唐揚げのザンギに甘―い玉子焼き、ハムの代わりにカリカリベーコンをいれたポテトサラダとスナップエンドウのお浸し。
それからたっぷりのおにぎりだ。
「お父さんが大好きなタコさんウインナーだって焼いたのにな」
ちぇっ、とそのタコさんウインナーを口へ入れた、そのときだった。
「うわあっ」
男性の声がした。なにごと? 顔をあげると目の前をなにかが転がり落ちていくのが見えた。
「へ?」
目をしばたたく。ひとつではない。いくつも転がっていく。
……おかしいな。わたし疲れているのかな。
目をこすってみたけれど見間違いはない。
どういうこと? だってあれ、と息をのむ。
「おにぎりに見えるんだけど」
まさかそんな、とおにぎりらしき物体を目で追って、ギョッとする。
今度は人間が目の前を駆けおりていった。
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