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1.君
父の跡を継いで医者としてこの診療所を任されて十五年。
その十五年の間、さまざまな患者が僕の元へはやってきた。
しかし彼女ほど印象的な患者はいない。
だって彼女は、病気になりたくてなっている人だから。
「どうしていつもいつも雨の日に傘なしで出歩くの?」
点滴の針を刺され過ぎて青くなった痛々しい細い腕を見下ろしながら訊ねた僕に、彼女はほのかに口角を上げてみせた。
「言ったでしょう。雨が好きなの。こんな素敵な雨の日に傘なんて無粋な物、要らない」
高熱で潤んだ目が僕を見上げる。
雨が好きなの。
そう言う彼女の言葉の裏に見え隠れする彼女の声から、僕はいつものように耳を塞ぐ。
好きなの。
先生が、好きなの。
「お母さんが心配するよ。こんなことを続けちゃいけない」
年長者の余裕を滲ませて言うが、彼女は微笑むばかりで、僕の言葉を真剣に受け止めようとはしない。
踏み込むのが怖いのか。それともただ恋に恋をしているだけなのか。
わからないが、彼女はそうしてもう十年間も僕を潤んだ目で見上げ続けている。
本当なら言うべきなのかもしれない。
君のその想いは募らせたところで無駄だと。
決して実りはしないのだと。
だが僕からそれを言うのは憚られた。なぜなら、彼女は決して本心を口に出して語りはしなかったからだ。
だから……最初は自意識過剰なのかと自分で自分が恥かしくなった。そもそも彼女とは二十歳以上歳が離れている。
否定しようとしたけれど、さすがに十年も接しているうちに単なる思い込みではないと確信するようになった。
彼女の瞳はいつだって僕に語りかけ続けていたから。
好きなの。
気づいて。
好きなの。
診察室で向かい合う僕に向かって彼女はテレパシーを送り続ける。
点滴を受けながら、長い睫毛に覆われた目で語り続ける。
受付で看護師と語る僕の姿を、待合室の椅子の上からひたすらに追いかける。
傍らに母親が控えていようとお構いなしに僕の瞳の奥へ、視線で声を届けようと目に力を込める。
そうして眼差しだけで僕に理解させようとする。
十年間ずっとだから、七つのころから十七歳になるまでずっとだ。
正直……怖いと思う気持ちもある。ただ一方で羨ましくもある。
それほどに長く誰かを見つめ続けられる彼女が。
とはいえ、言葉で示されない好意に対し、どう対処すればいいか、僕にはわからない。
瞳に込めた思いを一言でも口にだしてくれればすべて終わらせられるのに。
彼女がそんなふうだから、僕も言えない。
僕が誰も愛せない人間である、ということを。
──今日も、雨が降っている。
あの子は、どこかでまた傘を持たず歩いているのかもしれない。
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