2.僕

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2.僕

 当たり前に誰かが誰かを好きになる。それがこの世界の常識なら、僕は世界の輪から外れた異端の存在だ。  以前、水族館へ行ったとき見たことがある。  ぐるぐると同じ方向に回り続けるいわしの群れの中、たった一匹、逆方向へ泳いでいたいわしのことを。  僕はそのいわしだ。  そんなふうだから僕には、初恋、という経験がない。  小学生のころはそれでもよかった。だが、中学、高校へと進むうちにそうした恋愛にまつわる会話が増えるようになった。 「お前は、どんな子がタイプ?」  そう訊かれるのが苦痛でたまらなくなった。  好きな子なんていない、恋愛とか今は興味ない。  そう答えたときの友人たちのしらけ切った顔。  彼等の顔を見るたびに胸の奥がぐっと狭くなるのを感じた。  恋をしない人間はそんなに異常なものだろうか。  誰にも心を移さず、ただ静かに時を紡ぎたい、そんな人間がいてもいいのではないだろうか。  なぜ、みんな一つの枠の中に全部を押し込めようとするのか。  恋がわからない僕は、自然と人との間に壁を作るようになっていった。  それでもそんな壁をものともせず、こちらにずかずかと入ってきて、僕に好意を投げつける人もいる。  僕はそんな彼らをいつもやんわりと押し返した。 「ごめん、他に好きな人がいるから」。  こう言うだけで、彼らは簡単に引き下がっていった。  大学を卒業し、父の跡を継いで医師になってからもそれは変わらなかった。  変わったのは断り文句くらいだろうか。 「こんな仕事ですし、家庭よりも患者さんの方が大事ですから」  結婚をせず、独身を貫き続ける僕にお節介を焼いて見合いの話を持ってくる人たちへ微笑しながら言うだけで、たいていみんな引き下がる。  好きな人がいる、と言うと、「そんな何年も実らない恋はやめなさい」と頼んでもいない説教が落ちてくるのがうっとうしくて考え出した断り文句だったけれど、思った以上に効果があった。  だが、もちろん良心も痛む。  そんなつもりもないのに、高尚な人間と受け止められ、意図せず尊敬の念を集めてしまうから。  さすがに罪悪感に苛まれる。けれど、真実を打ち明けて奇異な目で見られるよりはましだ。  異常だと決めつけられ、遠巻きにされるよりずっといい。  人を遠ざけるように仮面をかぶって生きているのに、人から完全に離れるのも怖い。  それが僕だ。 ──今日も雨。  診療所の窓ガラスを連れだって流れ落ちていく雫を目で追っていると、先生、と看護師の安田さんが声をかけてきた。 「北条 渚(ほうじょう なぎさ)さん、また熱出したとかで診察に見えてますよ」  看護師の間でも彼女、北条渚の視線は有名だ。何気ない口調を装っているが、隠しきれない興味本位な含み笑いが安田さんの顔には浮かんでいる。  それに気づかないふりをしつつ、僕は、そうですか、とだけ答える。 「先生、また熱出ちゃった」  診察室に入ってきた彼女は、学校帰りらしい制服姿で白い頬を熱に染めてうっとりと言う。  彼女の熱を含んだ眼差しは、今日も言葉とは違う思念を僕に向かって送って来る。  好きなの。  好きなの。  視線は僕に繰り返し訴える。  やめてくれ! そう叫びたくもなる。  君からの想いは僕には重荷でしかない。わからないのか? 十年だ。君の想いを黙殺し続けてもう十年。  さすがに諦めてもいい長さじゃないか?  だが拒絶は明確な想いや行動を示されて初めてできること。  彼女はただ、体調を崩して通院しているだけだ。待ち伏せをされるわけでもない。  ただ瞳で訴えるだけ。  視線は暴力だと思っても、僕は医者であり、具合の悪い患者を見捨てることはできない。  だとしたら自分の仕事にだけ目を向けるべきだ。  そう気持ちを切り替えて彼女と接するようにしているからか、よくもまあ諦めないものだ、と最近は少し清々しく思うようにさえなってきた。 ──僕の心を閉じ込めるように、雨は降り続く。  診察を終え、窓の外に目をやると、処方箋を受け取った彼女が帰っていくのが見えた。  さすがに今は傘を差している。真っ赤な花を思わせる彼女の傘が雨のカーテンの向こうに消えるのを、僕はぼんやりと見送った。    
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