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秋良がパウダールームから出て来ると翔吾が腕組みをして壁に寄り掛かっていた。赤く腫れた瞼を見ると気の毒そうな顔でその手首を引いた。
「え、なに何処に行くの」
「係長には言って来た、珈琲一杯分付き合ってやるよ」
「そんな事しなくて良いのに」
「そんな顔で行ったら余計にみんな気不味いだろ」
「そ、そうだけど」
なにか気の利いた言葉を掛けたいが見つからない、他人を見下す言葉ならば次から次へと浮かんで来るのに泣き顔の秋良にどう接すれば良いのか翔吾は戸惑うばかりだった。
心の声E(だっせぇとか)
心の声D(だっせぇとか、なに言うつもりなんだよ!)
心の声A(ど、ど、ど如何するよ)
心の声B(大丈夫だよ俺がいるから、とか?)
心の声C(ばばばばば馬鹿かよ!)
心の声一同(ーーー黙っておこう)
翔吾と秋良は珈琲の缶を手に誰もいない屋上で初夏の風に吹かれた。救急車両の忙しないサイレンが響きやがて遠ざかって行く。沈黙が2人に重くのしかかり、翔吾が上擦った声で話し掛けた。
「書類の不備とかおまえらしくないな」
「ーーーー」
「変だなって思ったらおばちゃんに聞けよ、あ、気が付かなかったからミスったのか」
「でも、覚えがないの」
「なにが」
「あの書類に覚えがないの、大口のお客さまの満期契約だから見落とす筈がないの」
「そうなのか」
「うん」
翔吾には秋良が嘘を吐いている様には思えなかった。何かが引っ掛かった。
「戻ったらちょっと見せてみろ」
「分かった」
「なに、如何した」
「ーーーー」
秋良は空き缶を足元に置くと翔吾に向き直りその胸に抱きついて来た。匂い立つ柑橘系の爽やかな香と汗ばんだ腕、翔吾の心臓は跳ね上がった。
心の声一同(な、なんですとーーーー!)
「翔吾」
「な、なに」
「ーーーー」
胸に顔を埋めたくぐもった声、翔吾の腕は広げたまま行き場を無くしていた。
心の声一同(そ、そこだ!抱き締めろ!)
石の様に固まった腕が秋良の肩を抱こうとした瞬間、目の前の鉄の扉が開き翔吾と秋良はバネに弾かれる様に飛び退いた。
「あーーん、探しましたぁ♡」
「みっ、三笠」
「伊藤さん1番に外線入ってますぅ」
「そんなもん折り返しゃ良いだろう!」
「あ、そっかー♡」
ぎこちない動作の2人を後に三笠美桜は階段を降りて行った。その眉間には深い皺が寄り、唇はきつく結ばれていた。
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