印鑑

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月曜日  翔吾はバスの停留所で待ち合わせをし、手を繋いで出勤したいと言い出した。それを秋良は丁重にお断りした。翔吾はやや膨れっ面をしたものの秋良に悪態を吐く事も無く俺さまは(なり)を潜めた。 「おはようございます」  2人が時間差で営業部フロアに足を踏み入れると不穏な空気が漂っていた。そこには 村瀬 寿 係長、黒木部長の姿もあり険しい面立ちをしていた。秋良の姿を見つけた高坂壱成は朝の挨拶をして片手を出した。 「伊東さん、伊東さんの認印と朱肉を見せて」 「あ、はい。ちょっと待って下さい」  デスクの鍵を開け中から認印と朱肉を手渡した。村瀬 寿 係長のデスクには、秋良が書き損じたと注意された新規保険申し込み書や満期継続契約申し込み書が並べられていた。その隣には三笠美桜が青ざめた表情で立っていた。 「あの、なにかありましたか?」  書き損じの申し込み書の訂正印は朱肉の赤と黒インクが重なっていた。秋良の朱肉には黒インクが滲んだ跡は無く、認印の凹凸も赤一色だった。 「綺麗だな、黒いインクは付いていないな」  それを確認した黒木部長は腕を組み三笠美桜を凝視した。テーブルに並べられた可愛らしいクマのシールが貼られた朱肉にはと黒いインクの跡が残っていた。 「これは三笠美桜さんのデスクで見つかった物で間違いないね」 「ーーーーーー」 「間違いないね!」  普段は温厚な黒木部長の強い口調に三笠美桜は震え上がった。 「は、はい」  黒インクで汚れた朱肉の隣には、黒インクが凹凸に染み込んだの認印が転がっていた。これも三笠美桜のデスクの引き出しから見つかった物だ。 「ーーーこれって」  秋良が愕然としていると高坂壱成が申し込み書の訂正文字を指差した。 「伊東さんの文字とこの申し込み書の文字が違う事に気付いたんだ」 「分かりませんでした」 「一生懸命真似をしたみたいだけれど三笠さんの癖字は直らなかったみたいだね。に見えるし、になっている」 「あっ、本当ですね」  三笠美桜は翔吾と秋良の仲の良さを妬んでこの様な愚行に走ったのだと白状し謝罪した。然し乍ら書類改ざんは決してあってはならない違反行為で三笠美桜は謹慎、減給、小規模な営業所への異動が申し付けられた。結果、三笠美桜は自主退職で三共保険株式会社を去った。 「ごめんなさいね、伊東さんだと決めつけて」 「いえ、これから私も気を付けます」 「そう言って貰えると助かるわ」  そこで面白くないのが翔吾さまだ。彼女の窮地を救うどころかその手柄を好敵手(ライバル)の高坂壱成に掻っ(さら)われた。 「ぐぬぬぬぬぬ」 「伊藤くん、面白くなさそうな顔をしてるよ」 「ぐぬぬぬぬぬ」 「秋良ちゃんがお礼をしてくれるって、なにお願いしようかな」 「ぐぬぬぬぬぬ」 心の声一同(この役立たずがーーーー!)  秋良は高坂壱成と回転寿司を摘みながら談笑し、翔吾はその2人を遠く離れたカウンター席でかっぱ巻きを頬張りながら恨めしく見た。
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