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三共保険株式会社 秋良
秋良は富山大学を卒業し富山駅前の三共保険株式会社富山支店に就職した。然し乍ら入社して2ヶ月で金沢駅西口の金沢本社への異動が決まった。人は栄転だと言ったが定年間際の父親を残して富山を離れる事には躊躇いがあった。
「秋良、懐かしい街じゃないか、行っておいで」
「懐かしい、なにが」
「なにがって、愛児園に決まっているだろう」
懐かしいもなにも、あの10月30日が苦い思い出となり愛児園の事を思い出すと秋良の胸は痛んだ。記憶の中で美化しているのかもしれないが小学生の秋良は伊藤翔吾の事が好きだった。
(それなのに)
翔吾は自分から5年後に愛児園のマリア像の前で会おうと言ったにも関わらず5年後の10月30日に姿を見せなかった。高等学校1年生の秋良は酷く傷付き長かった髪を短く切り、もう2度と恋などしないと心に誓った。
「ここが金沢本社」
三共保険株式会社は金沢駅西口の片側3車線の大通り沿いにあった。15階建て全面ガラス張りの本社社屋は圧巻で思わず口を開けて呆けてしまった。
(こ、こんな所で働くの)
多分に御局様と呼ばれる先輩にロッカールームで嫌味を言われるのではないかと思いきや石川県民・金沢市民の気質は穏やかで営業部であるにも関わらず気忙しさは無く不穏な空気も感じられなかった。
(のんびりしているのね)
「はい、ここが伊東さんのデスク」
「ありがとうございます」
「西日が当たって眩しい時はブラインド下げても良いからね」
「ありがとうございます」
秋良には一番窓際の席が当てがわれた。段ボールから細々とした物を引き出しに仕舞う作業は新年度らしく新鮮で背筋が伸びる思いがした。そして隣の机に座る女性社員は非常に優しかった。
(優しい)
これまで秋良の周囲に集まる女性は皆、優しかった。いや持て囃されていた。高等学校の体育祭では詰襟の制服を着るように薦められ、赤いハチマキに白い手袋を着けて応援団に並ぶと黄色い声援が彼方此方からあがった。文化祭では秋良のスナップ写真が販売され、卒業式では在校生のみならず同級生の女子生徒も別れを惜しんで号泣した。
「伊東さん、人気があったでしょ」
「人気、なんの人気ですか」
斜向かいの年配の女性社員が飴をくれた。
「だって、ほら」
「ほら?」
刈り上げた襟足、緩い巻毛の長めの前髪、面長で色白、切れ長の黒目がちな瞳、薄い唇、上背もあり手足も長く薄化粧も相まってヴィジュアル系バンドのボーカリストの様だと彼女たちは頬を染めた。
(なるほど、それでみんな優しかったのか)
秋良はたおやかな少女から凛々しい女性へと姿を変えていた。
「髪が短いから、そう見えるだけですよ」
「ううん、それだけじゃない」
「それだけじゃない?」
「なんだろう、陰があるというか何処か寂しそう」
「秘密がありそうな感じで格好いい」
「私、寂しそうですか」
「あ、ごめん気にしてた?」
「いえ、大丈夫です」
寂しげな表情はあの10月30日を今も引き摺っているからに違いなかった。
(いい加減忘れなきゃ)
秋良がふと営業部フロアの扉を見遣ると男性社員が大欠伸で入室した。
「黒木課長すみません、遅くなりました」
「遅いぞ、今何時だと思っているんだ」
「え、まだ始業前ですよね」
上司に横柄な態度で受け答えをしている男性社員。
「遅刻寸前で君は何故そんなに偉そうなのかな」
「ーーーーえーと、性格?」
秋良は伊藤翔吾を忘れなければと思っていた。
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